| Next»

 11月4日に米カリフォルニア州で同性婚を禁止する州憲法改案が住民投票にかけられ、52%強の賛成多数で可決された。ふと思ってみるのだが、もし日本で法的婚姻に係る性別の決まりについて国民投票が実施されるか、あるいはそういったことが政治的日程に上がってきたときに、私はどういう態度をとるだろうか。
 この議論には二つの争点がある、としてみる。一つは法制度としての結婚を同性の両人にも認めるか、とうことであり、もう一つは逆に、そもそも結婚を法制度に組み込む必要があるのか、ということになる。
 私はここに、結婚は法によって規定される必要はないのではないか、と疑う。婚姻の状態にあるかどうかで法的扱いを変える必要は果たしてどのくらいあるのだろうか。これは別に文化的社会的習慣としての結婚に言及するのではない。
 そこで、もし同性婚を認めるかどうかが国民的議論にかけられようとするならば、私はまず法的婚姻という制度の是非について先に考えたらよいのではないかと思うだろう。しかし、既に話ができて事が進むならば、動き出したものを敢えて止めようとは思わない。その時は同性婚を認める方に明らかに賛成するだろう。
 これは矛盾ではないかと言われるかもしれない。しかし、矛盾の故事は売り文句の観念的であることについて伝えているのだが、矛と盾は本来両手に持つものである。ただ右手に矛を、左手に盾を持って局面によって使い分けるというだけのことだと思っている。
 物事には出来るときと出来ないときがある。ある時局には結局その時に出来るだけのものしか出来ない。何処で見切りをつけるか、どうやって次の潮目に繋いでいくかが努力と工夫のしどころなんだろう。

刊刻:2008-11-16T02:13JST
分類:共有 , 人性
執筆:Kodakana

 前回から随分間が開いてしまったが、まったり続けますよ…

 さて今回は単発の企画であり、時間は限られていた。そこである部分の話題に時間が偏るのは避けたかったことで、特に過去の個別の事例の分析に入ると不用意に多くの時間を使ってしまうことにならないかということは心配していた。それは必要なものの一つである。考え方の経路、頭の使い方にはもっと多くの組み合わせがある。

 未来を見ながら生きるということは、答えのない謎かけを解き続けるようなものだとすれば、問いは過去にあり、答えだと思ったものも次の瞬間には問いかけになる。未来には何があるかわからないということはわかっている。

 既に存在を現したものはつかみやすい。その捉えやすさに拠りすぎると不足が生じる。不足を埋めようとして望むものを過去に投影すると歴史を歪めることになる。望むものは星のように遠くても、それに六分儀の片目を宛て、もう片方で歴史を水平に見て己の位置を決めたいと思う。

 次回に続く。

刊刻:2008-11-16T02:03JST
分類:共有 , 人性
執筆:Kodakana

 9-27 チャット会より(1);冒頭〜FOSS についてより続く。

 25年ほどに及ぶフリーソフトウェア運動は、直接的な成果物であるフリーなコンピュータプログラム群だけでなく、様々な副産物を積み上げてきた。それは一つには様々な人々が地理的隔絶を超えてオンラインで共同作業するための環境、語彙、手本、ノウハウであり、また別の面ではクリエイティブ・コモンズに影響し、あるいは学術分野におけるオープンアクセス運動を惹起した(参考:FOSSコミュニティによく似た、学術分野における「オープンアクセス運動」オープンアクセスとオープンソースを融合させたPublic Knowledge Project)。
 インターネットを利用して運動を発展させた例として様々な面から見るべきところがあるだろう。単に参考にするという程度にとどまらず、分野によってはもっと直接的な協力関係を築いた方が双方にとって利益になるというところもある。しかしそうした試みはまだあまりうまくいっていないようだ。双方に改善すべき面があるということは分かっている(参考:オープンソースソフトウェアが活動家たちに注目されない理由 - SourceForge.JP MagazineFOSSのサポータは消費者運動家となるべきなのか? - SourceForge.JP MagazineFOSSコミュニティーと身体障害者ユーザとの相互理解の必要性 - SourceForge.JP Magazine

 ところで、いまこうして記事を書くためにチャットのログを見返してみて思うのは、「話がかみ合っていないなあ…」ということだ。もちろんその時にもちょっとかみ合い方が悪いとは思ったが、それにしてもかみ合っていなかったという気がする。

» 続きを読む…

刊刻:2008-10-11T23:53JST
分類:共有 , 人性
執筆:Kodakana

 前掲『09-27 チャット会終了とログ公開のお知らせ』の通り、9月27日のチャット会は無事実行された。これから数回に分けて、同会での話題について取り上げていく。
 今回は、冒頭で語った FOSS の話題を中心に記す。

まず、FOSS の話題に入る前、冒頭の Kodakana の発言から;

» 続きを読む…

刊刻:2008-10-08T22:09JST
分類:共有 , 人性
執筆:Kodakana

fightback.exblog.jp に8月31日まで存在していたファイトバックの会のブログが破綻に至った経緯などについて、この9月に入ってから山口智美さんが精力的に記事を執筆しておられます。8月末時点での状況から私もひどく勘違いしていたところがあったかもしれませんが、それにしても「ちょっとありえないだろ」と思うような事実が出てきて驚かされております。また一連の記事の中でブログの閉鎖までのいきさつも一通り記述があったと思いますので、ここでは一般論的なことも交えつつ再度そのあたりの問題について考えてみます。

まず、基本的な認識として、ウェブページはウェブに公開されるとき、その発信者がここと定めた場所に置かれることによって、その URL がウェブ上においてその文書を意味付けする最初の文脈になります。

そして、ウェブページは複製されて読まれます。読者がウェブブラウザを操作してページを要求すれば、ウェブサーバから転送されたデータがクライアトマシンのワークメモリ上に複製されます。それと同時に、多くの場合でウェブブラウザが管理する一時的なキャッシュがローカルディスクに保存されます。また、Google のような検索サービスや、Web Archive などはウェブに閲覧可能な形で複製を保存します。サイトがフィードを配信している場合は、フィードリーダも記事の複製を保存します。

早合点しないでもらいたいのですが、「複製されて読まれる」のは新聞紙や雑誌・書籍などの印刷物も同じです。ただ、印刷物の場合、一度出版されて読者の手に渡った記事そのものを修正したり、そこに謝罪文を加えることは困難です。定期刊行物の新しい号に訂正を入れても、もとの記事はそのまま残ります。ウェブページの場合、記事そのものを訂正できるのは利点として捉えて欲しいと思います。

ところで、木簡や竹簡の時代に、文字の誤りを小刀で削って修正することを「刊謬」と言ったそうです。木簡は厚みの限り直すことができたように、ウェブページも「刊謬」することができます。かつて本を読むためにそれが置いてある場所へ出かけたのに似て、いま私たちはウェブページを読もうとする度に原本の新しい複製をそれが置いてあるサーバに要求します。書を著すということの在り方が時の流れの中で大きく一回りしたのかもしれません。

そこで、ブログに掲載した記事に問題があった場合の対処として、私が想定してきた「刊謬」の考え方を、以下にまとめてみます。

» 続きを読む…

刊刻:2008-09-25T02:50JST
分類:共有 , 人性
執筆:Kodakana
テレビ塔めがけて

いつもは開催中から記事の準備にかかる「ブログで見る〜」ですが、今回は Kodakana が現場に行っていたのと、月火とやや忙しかったため遅くなりました。だがしかしそんな事情も脇に置いてはりきっていってみようと思います。ブログで見る第12回レインボーマーチ札幌、ウェブも虹色に!

いや、正直言って現場に行ってしまったのでブログをあさる動機がなんぼか低くなっておりますが。しかし実際に行けるのは札幌くらいだし、現に行ってからまたいろんな人の見る目を借りるとちょっと感慨がありますね。運営の人、協力してくれた警察の人、歩いた皆さん、乙彼様でした。そしてありがとう! 来年はブロガーとしての名刺作って持って行こうかなあ。

関連リンク

今までのブログで見るレインボーマーチ札幌

刊刻:2008-09-17T23:56JST
分類:共有 , 人性
執筆:Kodakana
| Next»