19世紀、ヨーロッパの伝統的なレスリングを基礎として初期近代のプロレスリングが成立した。その時期は、アマチュアレスリングの成立よりも早い。この時代のプロレスはタイトルや賞金をかけて(あるいはそれを目指して)行われる「競技」であり、ファーマー・バーンズやフランク・ゴッチなどはこの時期の強豪として今でもその名を知られている。競技時代のプロレスはヨーロッパや北米で人気を博するが、競技であるが故に、大きな展開のない試合になったり、やたら長引くこともあった。それでも物珍しさから観客を集めることができていた時期は20世紀の初頭には過ぎ、戦争や工業化が進む時代背景とも相まって廃れていく。

こうした状況の中で、いわゆるケツ決めを導入した新しいプロレスが成立したのは、1920年代であったと謂われている。ケツ決めとは試合の結論、つまりどちらがどう勝つかを先に決めておくことであり、これによって試合時間を一定の範囲内に収め、娯楽性を高めることができた。観客は安心して入場料を払うことができ、選手にとっても勝敗に関わらず自分の技術を生かしていいところを見せられて、そして金を取ることができる。

プロレスは、観客のための格闘技としての地位を確立し、その裏では、アマレスから切り落とされた伝統的レスリングの高等技術を守っていくこととなる。

この新しいプロレスは太平洋戦争後の1950年代、大相撲から弾き出された力道山を媒介にして日本に根を下ろす。太平洋を越えて日本にプロレスを伝えた立役者として、力道山の他に、沖識名、グレート東郷、ルー・テーズ、カール・ゴッチといった名を挙げることができる。山本小鉄さんはその力道山時代の末期1963年に日本プロレスに入団した。山本小鉄さんはその後1972年にアントニオ猪木らとともに新日本プロレスを旗揚げ。選手として活躍した後、レフェリーやテレビ中継の解説を務め、裏方としては後進を厳しく指導した。

その山本小鉄さんが、先日、低酸素性脳症で亡くなったという。68歳。4月頃にも「ワールドプロレスリング」で元気な姿を見せていただけに、急な訃報にはただ信じられないという外ない。何かをのどに詰まらせたらしいが、床に長くいて衰弱して死んでいくのではなく、飛び込むように逝ってしまうあたりが小鉄さんらしい。1978年生まれの私には選手時代の記憶はないが、「解説は新日本プロレス審判部長の山本小鉄さん」にはプロレスの見方というものを教わった。力道山時代を知らない者にその頃の匂いを伝えてくれた最後のプロレスラーであったと思う。