『海野十三敗戦日記』という文書がある。海野十三氏は1897年に生まれ1949年に没した。科学者でもあり、日本におけるSF作家の草分け的存在でもある。『敗戦日記』は海野氏が「空襲都日記」「降伏日記」と題して書き残したものを、氏の死後に編集し刊行されたもので、日付は昭和19年12月7日に始まり、昭和22年6月4日に終わっている。

この日記は、海野十三氏の私的な記録として書かれた。東京への空襲が始まった頃から記述が始まり、爆撃やその被害の様子を後日の用のためとして記しつつ、そこに自身の体調や家族の心配なども混じってくる。戦況がいつかは好転するだろうという「臣民」的な願望と、科学者的な分析眼が交錯し、隠しようのない継戦能力の喪失から敗戦に至り、戦後へと状況が遷り変わる中での精神の揺れ動きも読み取ることができる。同時代の記録として貴重なものである。

これはいま青空文庫に収録されている。いつでも見られるので、まとめて読んでもいい。ただ、実際の日付に合わせてその「時間」を感じながら読むことができればまた良いかもしれない。そこで、試みにこの日記を小分けにしてミニブログに投稿しながら読んでみたい。今日が12月7日なので、本日から始めようと思う。はてなハイクの id:Kodankana と、Twitter の @unno_13 で実行する。


なぜ、今これを読むことに価値があるのかと思う人もいるだろうが、それは、歴史とは社会の地層だからだ。地質を知らなければ、適切な建設はできない。地盤に軟弱なところがあれば、それに合わせた工法を考え出さなければ、大きな建築を行うことはできない。現在の日本社会にとっての地層を調べる上で重要な史料はいくつもあるが、この『敗戦日記』はそのうちの一つに数えたい。

かつてソ連の詩人ブラート・オクジャワは、一度目の戦争は誰のせいでもなく、二度目の戦争はだれかのせい、三度目の戦争、それは私の罪と歌った。過ちを重ねることは大きな罪となる。近年、日本の政治や何かが戦前と似てきたとも言われている。察せざるべからざることがある。

最後に、今回の計画は青空文庫版のテキストデータを元にさせていただき、適宜分割したり、注記を削る場合がある。青空文庫版の奥付をここに引用しておく。

底本:「海野十三全集別巻2 日記・書簡・雑纂」三一書房
   1993(平成5)年1月31日第1版第1刷発行
底本の親本:「海野十三敗戦日記」橋本哲男編、講談社
   1971(昭和46)年7月24日第1刷発行
※ノート2冊に書き残された「空襲都日記」と「降伏日記」は、筆者の死後、海野と親交のあった橋本哲男氏によって編まれ、「海野十三敗戦日記」として出版された。同書では、1944(昭和19)年12月7日から翌年5月2日まで分を「空襲都日記」、5月3日から1945(昭和20)年12月31日までを「降伏日記」としている。
三一書房版の全集編纂にあたって、別巻2の責任編集者となった横田順彌氏は、「海野十三敗戦日記」を底本としながらも構成をあらため、同書の「空襲都日記」を「空襲都日記(一)」、「降伏日記」の内、1945(昭和20)5月3日から8月14日までを、「空襲都日記(二)」、残りを「降伏日記(一)」とした。さらに、英夫人よりあらたに提供を受けた1946(昭和21)年1月1日から翌年6月4日までの分を「降伏日記(二)」として増補した。
このファイルの作品名は、「海野十三敗戦日記」としたが構成は、三一書房版の全集に従った。講談社版には橋本哲男氏による解説「愛と悲しみの祖国に」があるが、全集同様、本ファイルにも同文は収録していない。
入力者注による体裁の記述も、全集版に基づいて行っている。ただし全集では、大幅に割愛してあったルビを、本ファイルでは補った。講談社版には橋本哲男氏が注を付しており、全集もこれをなぞっていたが、本ファイルでは新たに入力者注として付け直した。これらの作業にあたっては、講談社版を参考にさせていただいた。
※1945(昭和20)年8月13日に海野が認めた遺書を、本ファイルでは同日付けの日記の末尾に付した。
入力:青空文庫
校正:伊藤時也
ファイル作成:野口英司
2001年1月13日公開
2001年1月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

海野十三敗戦日記(青空文庫)