(承前:読了:『1993年の女子プロレス』〜世界で唯一、日本でだけ発達した女子プロレスの真実)
アメリカにおける黎明期の女子プロレスラーであるミルドレッド・バークが、女子世界王座(後の WWWA 王座)を獲得したのは1937年。バークは55年に引退するまでこれを保持していた。これが全日本女子プロレスにもたらされたのが1970年、京愛子が二代目王者マリー・バグノンから奪取したとき。海外では女子プロレスが男子プロレスと並び立つほどに成長することがなく、このタイトルは日本に定着し、日本は「女子プロレスの本場」になった。
アメリカやメキシコではプロレス団体には一般に男女の区別はなく、女子の試合は男子主体の興行の中でおまけ程度に行なわれる。一方日本では力道山がプロレス界に相撲気質を持ち込んだためなのか、男子と同じリングに女子が上がることはあまりなく、女子専門の団体ができた。皮肉にも思えることだが、このために日本でだけ女子選手をメインイベンターに成長させる「土俵」ができたのかもしれない(もっとも「男女別教育」があらゆる分野や段階において有効であるとも思わないが)。
マッハ文朱やビューティ・ペアの時代を経て、長与千種とライオネス飛鳥のクラッシュ・ギャルズが結成されるのが1983年の夏で、それから長与千種が引退する89年までが女子プロレスの全盛期中の全盛期ということになるだろう。一方雇用機会均等法の施行は86年である。施行が86年ということは、実際にはもっと前から色々な議論、審議を経て成立、数ヶ月後に施行という流れなので、社会全体はすでに均等法時代に向けて動き出している。また別の面から見れば、しっかり眉毛に薄化粧、という力強さのあるメイクが流行するのもこの時期に重なる。
15〜16歳でプロレスラーとしてデビューした女子選手が、同年代か少し下くらいの少女から熱狂的な声援を受ける、という光景は、当時を知らない世代にとっては信じがたいものかもしれない。長与千種には本当に熱狂的な多くのファンが付いていた。確かに長与千種は発想力、技術力、表現力を兼ね備え、男子も含め20世紀で最高のプロレスラーの一人だった。しかしそれだけではあれほどの熱狂的な支持には繋がらなかったと思う。
クラッシュ・ギャルズの時代は、同時に雇用機会均等法の草創期であり、女性の雇用環境が大きく変わる、あるいは、変わっていくだろうという予感の中で、新しい女性像が求められ、少女たちの将来像も揺れ動いていただろう。長与千種の容姿や性格は、いわゆる女性らしいというものではなく、かといって男っぽくもなかった。あり合わせの言葉で簡単に言えば中性的ということになるのだろうが、中性的という言い方が適切かといえばそうでもない。
80年代の社会情勢は、そんな長与千種に「ジェンダー・バイアスの縫い糸を焼き尽くしてしまいそうな何か」を纏わせ、「新しいロールモデルになってくれるかもしれない」という夢を感じさせる存在たらしめた。そしてプロレスは、闘いを表現することで観る者の精神に何かを訴えるのに適した手法である。だからこそ、女子プロレスファンになった少女たちの多くが、己の存在を賭けるくらいの勢いで長与千種に熱狂的な声援を送ったのではないだろうか。
しかし長与千種が引退する頃には、そのファン層も実際上の問題として大人社会に適応しなければならない年齢に達しつつあり、そして女子プロレス界には彼女たちが夢を託し続けられる選手はいなかった。これには全女の「25歳定年制」と呼ばれた慣習が関係している。定年制と呼ばれるのは、その年齢になれば自動的に引退するという仕組みではなかったものの、実際には多くの選手がその年齢の前後で引退していたからだ。これは少年期の女子を主なファン層として獲得するための一種のビジネスモデルだが、それも90年代初頭のブル中野とアジャ・コングの抗争によって崩壊した。二人が男性のプロレスファンを引き込んだからだ。
90年代は、女子も男子もプロレスがマニアックになっていく時代である。ゴールデンタイムでのテレビ放送はなくなったが、それがあった時期の直後であるため、ファン層はまだ厚く、会場に足を運ぶ観客はむしろ80年代より増えたかもしれない。そんな中、女子プロレス界は93年から団体対抗戦時代に入る。この年は、雇用機会均等法施行から男女共同参画基本法施行までの13年間の中程であり、この頃からマスメディアに現れる女性像の傾向にも変化が見られたことを私は記憶している。
90年代後半になると、主に高校生の間で、あの不思議な「茶髪にガングロ」が流行し、広く話題になる。団体対抗戦の季節が過ぎて観客が減り、全女が手形不渡りによる銀行取引停止処分を受けたというのが97年。そして99年に男女共同参画基本法が施行され、日本政府の男女平等化政策は新しい段階に入る。全女がその経営体質のために行き詰まったのはともかく、その悪いところを取り払い、取って代わろうとした他の団体がもう一つうまく行かなかったのはなぜだろうか。いくつもの要因が複合した結果ではあるだろうが、ここではやはり政策の影響という面から考えてみたい。
男女共同参画基本法の成立は、性差別を是正していく平等化政策を、社会全体に対するものとして体系化するものだった。であるのと同時に、従来使われてきた「男女平等」に代えて「男女共同」という耳慣れない語句が用いられたことは、神経質な守旧派の不安心理をすでに反映していた。「平等」に代えての「共同」という用語には、「男と女の間には線を引いておきたい」「男と女を対置した上で」という意思を当時感じたことを憶えている。
基本法の成立によって発足する男女共同参画行政は、日本社会が抱える実際上の問題に応えて、女性の社会的地位向上を図り、それまで女性が少ないか、またはいなかったところへ女性を送り込もうとし、そして「これからはこうなるぞ」という将来像を示した。これは一定の成功を収めたが、一方で社会の変化に対する不安や反発を駆り立てた。行政上の手法にまずい点があったこととともに、社会に平等化を強く推進できる条件が整っていなかった。
平等化のためには、基本的には「人の性質は性別で大括りにできるものではなく、結局は生来の個体差と固有の経験による」という理解が不可欠だと思うが、共同参画行政の作用に反発した神経的保守家のいくらかは、却って「男らしさ・女らしさ」という固定観念に拠りどころを求めた。この傾向は無視できない程度の訴求力を持っており、マスメディアが選好する女性像にも影響した。テレビでは芸能人ばかりでなくスポーツ選手にまで「テレビ局が思う女らしさ」みたいなものを要求するようになった。
こうなると女子プロレスを流行らせるのは難しい。プロレスはただ勝った負けたの腕くらべをすればいいのではない。闘いを表現することが求められる。表現するということは、ただ何かを示せばいいのではなく、発信者と受信者の周波数が合わなければ成立しない。周波数が合ってこそプロレスが観客の精神を打つことができる。多くの観衆と周波数を合わせるには、世の中の流行あるいは傾向に対して、何らかの形で対応しなければならない。かといって女子プロレスラーが「女子力」とかいう謎の力で序列化されてしまっては闘いを表現しにくい。表現として成立しなければ、プロレスが観賞されるだけのものになってしまい、共感が広がらず、観客は減ってしまう。
2000年代は、女子に限らずプロレスにとって難しい時代になった。社会がそうであったように、プロレス界でも守旧派と改革派が乱闘を演じ、価値観が混乱して団体もファンも細分化した。ただし男子に比べ女子プロレスが置かれた実際の状況はもっと厳しい。これもまた、形を変えながら続く社会の中の性差別の、一つの表現形ということになるのだろう。
しかし、一つの傾向がいつまでも続くことはない。あの総合格闘技ブームから最も打撃を受けた新日本プロレスも新しい客層を獲得しつつあり、旧時代の終わりから新時代の始まりへの転換を印象付けている。プロレスの歴史を見れば、人気に波があるのは当たり前。女子プロレスも、うつろう社会情勢の時節とうまく噛み合うときが来れば、もっと高い評価を得られるようになるだろう。
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