『三国志』魏書の第三十巻は、烏丸鮮卑伝と東夷伝の二部構成になっている。本来はともに東胡と呼ばれた烏丸と鮮卑が一部を成すのは至当である。では東夷としてまとめられた諸集団には、他とは異なる共通の特徴が有ったのか、それともただ「その他大勢」とされたに過ぎないのだろうか。この点について陳寿は多くを語ってはいない。

 『後漢書』東夷列伝は、「とは柢の意味だ(夷者柢也)」と記している。柢とは根本のことであり、万物の生じる所である。「だから、その性格は従順で、導き易く、君子が有れば、不死の国なのだ」と范曄は謂う。そして「東夷はほとんど土著」だとする。土著とは定住のことである。要するに、騎馬民族の様にあちこちと駆け巡って把握しにくい集団とは異なり、中国人と共通の基礎的な習俗を持っている、という見方をしている。「飲酒・歌舞を好み、或いは弁や錦を着け、器は俎豆(由緒正しい祭器)を用いる。中国が礼を失うとき、これを四夷に求めるとは、このことだ」と続く。

 孟子の言葉に「帝舜は諸馮で生まれ、負夏に遷り、鳴條で亡くなられた、東夷の人だ。文王は岐周で生まれ、畢郢で亡くなられた、西夷の人だ」と伝える。范曄は「四夷を蛮・夷・戎・狄と称するのは、諸侯に公・侯・伯・子・男と号する様なものだ」と謂う。古代中国人は、自ら文明の中心と信じ、四夷を遅れた存在とみなした。しかし、進歩の代償として、太古には持っていた礼儀や道徳を今や失いつつあると感じており、その遺存を外地に求めた。そうした暗愁や渇仰は、特に東夷に投影されていたのである。

 東夷に関係するらしい記述が史書に現れる初めは、黄帝に始まる五帝の四代目、堯の時代である。『史記』五帝本紀によると、堯は羲仲に命じて、嵎夷の暘谷という土地に住まわせ、敬んで日の出を導き、春の農事がつつがなく行える様にさせた。『後漢書』は、そこは日の出る所だろうと謂う。


 五帝の後を継いだ夏王朝の三代目、太康が政治を誤ると、夷人は始めて叛いた。六代目の少康が立ってからは、代々王化に服し、楽舞を奉納した。少康の庶子の一人が会稽に封じられ、土地の習俗に従って文身断髪し、草むらを拓いて邑を営んだ。これが越王勾践の祖先だと伝えられている。夏の最後の帝桀は徳に務めず、暴虐を働いたので、諸夷も内地を侵犯し、殷の湯王は革命をすると、これを討って平定した。殷の仲丁の時、藍夷が侵入した。この後は或るときは服ろい或るときは叛いた。三百年あまりが過ぎ、武乙はまた悪王で、東夷は次第に盛んになり、その一部は淮や岱に遷り、段々と中原に住む様にもなった。

 殷の時代、周の古公亶父に太伯・虞仲・季歴の三人の子が有った。季歴に昌が生まれると、古公はやがて昌が国を興隆させると予感し、末子の季歴に位を継がせ、昌に伝えたいと望んだ。太伯と虞仲は父の心を察して荊蛮の地に奔り、やはり文身断髪をして周に戻らないことを示した。太伯はその土地の千戸あまりを治め、国を句呉と号した。太伯が死ぬと、子が無く、仲雍が継いだ。これが呉王夫差の先祖だと伝えられている。昌は後の文王である。

 周の武王が殷の紂王を滅ぼすと、粛慎が来て石砮・楛矢を献じた。成王の時、管・蔡・武康らが淮夷を率いて叛いたので、周公旦がこれを討ち、東夷の平定に及んだ。康王の時、粛慎が再び訪れた。穆王の時、徐夷が号を騙り、九夷を率いて宗周を指して進み、黄河のほとりまで来た。穆王はその勢いを畏れて、徐の偃王を利用して懐柔させた。穆王は後に楚の文王に令して徐を伐たせた。偃王は武原の東山の麓に逃げたが、その仁義を慕って民衆数万が随従し、その山は徐山と呼ばれる様になった。

 厲王は暴虐傲慢であり、淮夷が侵陵し、これを虢仲に討たせたが、打ち勝てなかった。後に宣王が召公に命じてこれを平定させた。幽王は褒姒を溺愛して綱紀を乱し、四夷の侵犯を招いた。斉の桓公が覇業を修めると、これを打ち払い却け、楚の霊王が申に会同すると、また来て盟誓を行い、越が琅邪に遷都すると、その征戦に加わった。

 その頃、孔子は、中国が乱れて道が行われないので、むしろ九夷の地に移り住もうと望んだ。或るひとが「そんな僻地でどうなさる」と問うと、孔子は「君子がそこにおれば、どうして僻地だなどということがあろう」と答えた。

 秦が六国を併合すると、淮夷や泗夷も民戸に編入された。(続く