(承前)秦の始皇帝の二十八年(前219)、斉人の徐芾らが上書して「沖に三つの神山が有り、名を蓬萊方丈瀛洲と曰って、そこには仙人が住んでいます」と言い、これを探しに出ることを申し出た。始皇帝は、徐芾の求めに応じて、童男童女数千人を付け、海に出て仙人を捜させた。その三十七年(前210)、徐芾らは何も得ることが出来ず、費用ばかりがかかり、責められるのを恐れたので、詐って「蓬萊では神薬を得られるのに、いつも大鮫に苦しめられ、着くことが出来ません。どうか弓の上手を遣わして、それが出れば連弩で射る様にさせてください」と述べた。そこで漁民に道具を持たせ、始皇帝が自ら大魚が出るのを窺って射ようとし、之罘まで来ると巨魚が現れたので、一尾を射殺した。始皇帝はこの年に崩御した。

 秦の二世の元年(前209)、陳勝らが兵を起こし、天下が秦に叛くと、乱を避けて燕・斉などの地方から朝鮮に亡命する者が数万に及んだ。漢が興ると、遼東の塞を修復し、浿水を朝鮮との国境と定め、燕国に交渉を担当させた。漢の高祖の末年(前195)、燕王の盧綰が叛いて匈奴に入ると、燕人の衛満は千人あまりを率い、蛮夷の服装をして朝鮮に亡命した。真番・朝鮮の蛮夷や燕・斉の亡命者は衛満を王とし、王険に都した。


 恵帝の時(前194〜188)、天下が落ち着くと、塞外の蛮夷が辺境を犯すのを防ぎ、諸蛮夷の君長が天子に献見するのを妨げないことを条件として、衛氏は漢の外臣として認められた。数十年後、衛右渠の代になると、漢から亡命して朝鮮に入る者が増えた。また、右渠は朝見をせず、真番国や国が天子に上書し朝見しようとするのを遮って通さなかった。

 武帝の元光三年(前133)、李少君は祀竈・穀道・却老の術を行うというので名が聞こえ、武帝に重んじられていた。少君は武帝に「蓬莱の仙人に会い、それから封禅をすれば不死になります。黄帝がそうです。私はかつて海で安期生に会いました。安期生は仙人で、蓬莱に居り、気が合えば人に会い、合わなければ隠れます」と言上した。武帝は方士を遣わし、海に入って蓬莱の安期生の類いを探させた。数年後、蓬莱を探しに出した者が、「蓬莱は遠くないのに、行き着けないのは、その気を見ることができないからです」と言ったので、望気者を遣わしてその気を窺わせた。その後も蓬莱のことなどを言う者が多かったが、彼らはただ武帝の欲望から目先の利益を取り出そうとしただけであり、何ももたらすことはできなかった。

 武帝の元朔元年(前128)、濊君南閭らが右渠に背き、遼東郡に来て内属を申し出た。その地を蒼海郡としたが、数年後に廃止した。

 武帝の元封二年(前109)、漢は渉何を朝鮮へ遣わして、かつての約束を破ったことを責め諭したが、右渠は聴かなかった。右渠は補佐役のに渉何が帰るのを送らせた。浿水のほとりまで来たとき、渉何は馭者に長を刺殺させ、すぐに川を渡り、走り去って、「朝鮮の将を殺した」と報告した。武帝は渉何を遼東郡東部都尉に任命した。朝鮮は仇討ちに出兵して遼東郡を強襲し、渉何を殺した。

 その秋、武帝は、楼船将軍の楊仆と左将軍の荀彘を遣わして、海陸両面から朝鮮に攻め入った。右渠は王険城に陣取って対抗し、漢軍はひどく苦戦した。両将軍の行動はちぐはぐで、和議もうまく運ばなかった。ついに荀彘が楊仆を捕えて、両軍団を併せ、朝鮮を急撃した。翌年の夏になって、朝鮮側の尼谿相が人を使って右渠を殺し、降参した。それでも朝鮮の大臣成已が王険城を守って抵抗を続けたので、荀彘は右渠の子の長らに民衆を懐柔させ、ようやく成已を誅した。

 朝鮮が滅ぶと、漢はその地を分けて楽浪臨屯玄菟真番の四郡を置いた。玄菟は沃沮の地で、高句麗も県として玄菟郡に編入した。昭帝の始元五年(前82)、臨屯郡・真番郡を廃止して、楽浪郡・玄菟郡に併合した。玄菟郡は高句麗の方へ移され、沃沮・は楽浪郡の管轄に移された。元鳳六年(前75)になると、玄菟城は遼東に移され、実態としては楽浪郡だけが続いた。この頃、楽浪郡の領域が広大になったので、単単大嶺の東に東部都尉を置き、不耐城を治所とし、沃沮など七県を統括した。(続く