(承前)新の始建国年間(9〜13)、王莽が匈奴を討とうとしたとき、高句麗からも兵を徴発したが、彼らは行くのを拒んだ。強迫して出そうとすると、みな逃げ出して、止むを得ず略奪を働いた。遼西大尹の田譚がこれを追撃したが、返り討ちに遭って死んだ。王莽はこの責任を高句麗侯の騶に被せ、詔して討穢将軍の厳尤を出撃させた。厳尤は騶を誘き出して斬り、その首を長安へ送った。王莽は大いに悦び、高句麗の名を下句麗に更えると天下に布告したので、ますます反発を招いた。
更始帝が敗れた(25)頃、楽浪人の王調が郡守の劉憲を殺し、自ら大将軍・楽浪太守と称した。光武帝の建武六年(30)、新たに楽浪太守に任じた王遵を遣わし、兵を率いてこれを撃たせた。遵が遼東に至ると、楽浪郡三老の王閎と決曹史の楊邑らが共に調を殺して遵を迎えた。楽浪郡の東部都尉を廃止し、嶺東の地を放棄して、土地の渠帥を封じて県侯とした。彼らはみな歳時には朝貢をした。
建武八年(32)、高句麗侯が遣使して朝貢した。光武帝はその号を進めて高句麗王とした。二十年(44)、韓の廉斯の人、蘇馬諟らが楽浪郡に来て貢献した。光武帝は蘇馬諟を漢廉斯邑君に封じ、楽浪郡に付け、四時には朝謁させた。二十三年(47)、高句麗の蚕支落大加の戴升らが楽浪郡に来て内属を申し出た。二十五年(49)、高句麗が右北平・漁陽・上谷・太原を侵したが、遼東太守の祭肜が恩情と信義を以て懐柔した。同年、夫余王が遣使して奉献した。
建武中元二年(57)、倭の奴国王が遣使して奉献し、使者は自ら大夫と称した。光武帝は印綬を与えた。
明帝の永平十二年(69)、祭肜が召喚されて太僕に転じた。祭肜は建武十七年(41)に遼東太守となり、在任すること三十年近く、大いに功績を挙げ、威勢は北方を覆い、名声は海表に轟いた。これにより、濊・倭・韓は万里を朝見し、以後も使聘が流通した。
和帝の永元の頃(89〜105)、王充が『論衡』を著し、「周の成王の時、越裳は白雉を献じ、倭人は鬯草を貢した
」と記した。同じ頃、班昭は『漢書』を完成させた。その地理志・燕の条には、次の様に記されている。
玄菟・楽浪は、武帝の時に置かれ、みな朝鮮・濊貉・句驪の蛮夷。殷の道が衰えると、箕子は朝鮮に去り、その民に礼儀と田蚕織作を教えた。…この通り、東夷は天性従順で、三方の外とは異なる。だから、孔子は道が行われないのを悼んだとき、筏を海に設けて、九夷に居らんと欲した、というのも、そのはずではないか。楽浪の海中には倭人が有り、分かれて百余国を営み、歳時には来て献見する。
和帝の元興元年(105)、高句麗が遼東郡の六県を侵略したが、太守の耿夔がこれを撃破し、その渠帥を斬った。
安帝の永初元年(107)、倭国王の帥升らが生口百六十人を献じて請見を願い出た。五年(111)、夫余王が歩騎七〜八千人を率いて楽浪郡を攻め、官吏や住民を殺傷したが、後に和解した。同年、高句麗王の宮が遣使して修好を求めた。元初五年(118)、高句麗が濊を率いて玄菟城と華麗城を攻めた。永寧元年(120)、夫余王が嗣子の尉仇台を遣わして貢献した。安帝は尉仇台に印綬・金綵を与えた。
建光元年(121)の春、幽州刺史馮煥・玄菟太守姚光・遼東太守蔡諷らが兵を率いて塞を出、高句麗に反撃した。濊の渠帥を捕らえて斬り、兵馬・財物を奪った。宮は嗣子の遂成を遣わし、二千人あまりを率いて姚光らを迎撃した。遂成は狭隘な地形を利用して敵軍を引き留め、別に三千人を派遣して玄菟・遼東を攻め、城郭を焼き、二千人あまりを殺傷した。そこで広陽・漁陽・右北平・涿郡などから三千騎あまりを援軍に出したので、高句麗は退却した。
その夏、高句麗は遼東鮮卑とともに八千人あまりで遼遂を攻撃した。蔡諷らが追撃したが、属官ともども戦没し、百人あまりが死んだ。秋になると、宮は馬韓・濊を率いて数千騎で玄菟城を包囲した。夫余王が尉仇台を遣わし、二万人あまりを率いて州・郡と力を併せ、ようやくこれを討ち破り、五百あまりの首を斬った。
この年、宮が死に、子の遂成が立った。姚光は喪に乗じて高句麗を撃ちたいと上言し、議者はみな賛成した。ただ尚書の陳忠は「宮は狡智で、姚光は討つことができなかったのに、死んだからといって撃ちに出るのは、義ではありません。宜しく弔問を遣わし、前の罪を理解させたうえで、赦して誅を加えなければ、その後は善を取るでしょう」と述べ、安帝はこれに従った。明年(122)、遂成は漢の生口を還し、玄菟郡に和議を申し入れた。
その後、遂成は死に、子の伯固が立った。順帝の陽嘉元年(132)、玄菟郡に屯田六部を置いた。永和元年(136)、夫余王が京師に訪れた。この間、冲帝(144〜145)の頃までは、高句麗や濊とは事が少なかった。
質帝(145〜146)・桓帝(147〜167)の頃、高句麗が遼東の西安平を犯し、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を略取した。桓帝の延熹四年(161)、夫余が遣使して朝賀・貢献した。永康元年(167)、夫余王が二万人あまりを率いて玄菟を攻めた。玄菟太守の公孫域がこれを撃破し、千あまりの首を斬った。霊帝の建寧二年(169)、玄菟太守の耿臨が高句麗を討ち、数百の首を斬り、伯固は降服した。熹平三年(174)、夫余が再び印章を奉じて貢献した。
桓帝(147〜167)・霊帝(168〜189)の末、韓・濊が勢力を増し、郡・県では制することができず、多数の郡民が韓国に流入した。(続く)