(承前)献帝の初平元年(190)、遼東太守の公孫度は、中国の騒擾を知ると、腹心の柳毅陽儀らと語り、「漢の王統はまさに絶えようとしている。いまに諸卿らとともに王として立とう」と言った。その後、遼東郡を分けて遼西郡・中遼郡を作って太守を置き、海を越えて東萊の諸県を収め、営州刺史を置いた。自ら立って遼東侯・平州牧となり、父のを追封して建義侯とした。漢の二祖の廟を立て、天子のする祭祀を行い、天子の様にふるまった。曹操が上表して度を武威将軍・永寧郷侯としたが、度は「わしは遼東の王だ、何が永寧だ」と言い、その印綬を武庫に放り込んだ。

 公孫度が海東に雄張し、その勢威が外夷に及ぶと、高句麗王の伯固は臣下を遣わし、度を助けて富山賊を撃ち、これを破った。建安九年(204)、度が死んで、子のが位を嗣ぎ、弟のを永寧郷侯に封じた。

 建安十二年(207)、大将軍曹操は柳城で三郡烏丸を討ち破った。袁尚袁熙らは遼東に逃げ、なお数千騎を率いていた。曹操が彼らを追わずに兵を引いて還ると、公孫康はすぐさま袁尚・袁熙らを斬り、その首を伝送した。康を襄平侯に封じ、左将軍に任じた。

 この頃、公孫康は、楽浪郡の屯有県以南の荒れ地を分けて帯方郡を作り、公孫模張敞らを遣わして遺民を集め、兵を興して韓・濊を伐った。この後、倭・韓が帯方郡と交渉を持つ様になった。


 公孫康が死ぬと、子のらはみな小さかったので、弟の恭が推し立てられて遼東太守となった。魏の文帝が即位(220)すると、恭を車騎将軍・仮節とし、平郭侯に封じ、康には大司馬を追贈した。

 魏の明帝の太和二年(228)、公孫淵が恭を脅して位を奪った。明帝はすぐに淵を揚烈将軍・遼東太守とした。呉の黄龍元年(229)、大帝が校尉の張剛管篤を使者として遼東に送った。

 呉の黄龍二年(230)、大帝は将軍の衛温諸葛直を遣わし、甲士一万人を率いて海に浮かび、夷洲と亶洲を捜させた。亶洲は沖に在り、長老の言い伝えによると、その昔、秦の始皇帝が方士の徐福を遣わし、童男童女数千人を率いて海に入らせ、蓬莱の神山と仙薬を求めたが、徐福はこの洲に止まって還らなかった。世々継承して数万家になり、その人々が、時に会稽に来て物を交換することが有る。また会稽の東県の人が海を行くと、風に流されて亶洲に着くことも有る。しかし所在は絶遠で、亶洲には着けず、ただ夷洲の数千人を連れて還っただけだった。衛温と諸葛直は、詔に違い功が無かったとの咎で、獄に下されて誅された。

 呉の嘉禾元年(232)三月、大帝は将軍の周賀・校尉の裴潜を遼東へ遣わした。九月、魏の部将の田予がこれを要撃し、周賀を成山で斬った。十月、公孫淵が校尉の宿舒・閬中令の孫綜を呉へ遣わし、遼東は呉の藩屛であると称し、併せて貂と馬を献じた。大帝は大いに悦び、淵に爵位を加え、使持節・督幽州・領青州牧・遼東太守・燕王とした。

 その二年(233)三月、大帝は宿舒・孫綜を還らせ、それとともに太常の張弥・執金吾の許晏・将軍の賀達らに兵一万人を率いて遣わし、金宝珍貨と九錫の備物を公孫淵に授けようとした。丞相の顧雍已下、大臣らはみな、手厚すぎるとして諫めたが、大帝は聴かなかった。淵は呉が遠くて恃みにならないと恐れ、張弥・許晏らを斬り、その首を魏の方へ送った。このため明帝は淵を大司馬に任じ、楽浪公に封じて、持節・領郡はもとのままとした。魏の使者が至ると、淵は甲兵を設けて軍陣を布き、城外で使者と会見した。

 魏の景初元年(237)七月、明帝は幽州刺史の毌丘倹らを遣わし、公孫淵を洛陽へ呼び出そうとした。淵は兵を出して遼隧で倹らを待ち受けた。倹は進軍してこれを討とうとしたが、おりしも雨が十日も続き、遼水が漲ったので軍を引いて還った。詔して遼東の官民で淵に脅かされて降らざるを得なかった者は、一切これを赦免することとした。又、青・兗・幽・冀の四州には大いに海船を作らせた。淵はついに自ら立って燕王となり、百官・有司を置き、紹漢元年と称した。鮮卑の単于に璽綬を与え、辺民を抑えさせ、鮮卑が魏の北方を荒らす様に差し向けた。(続く