憲法二十四条が同性婚を否認する?

6月5日に青森市の同性カップルが婚姻届を提出した、という東奥日報の報道があった。市は憲法二十四条第一項を根拠に受理しなかったという(青森の女性カップルが婚姻届、市は憲法根拠に不受理 (Web東奥) - Yahoo!ニュース)。

同性婚が法的に認められていない地域で敢えて婚姻届を出す、という運動はアメリカで行われたことがあり、日本でもいずれは起こされるだろうと予期していた。それが今まさに実現されたことには、日本もまだ確かに”世界”の中に在ったか、という思いがする。

さて、問題の憲法二十四条第一項は、「両性の合意のみ」による結婚を定めているが、その全文は次の通り。

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

ここで、「両性の合意のみに…」というだけなら、それが男女に限らないという解釈は、字義的には完全に可能だ。しかし、すぐ後に「夫婦が同等の権利を…」という文が続くことで、文脈的にそれは男女間の結婚を定義する形になってしまっている。この条項が旧法の家制度から結婚を解放することを意図して加えられたものに過ぎないことは疑えないが、表現が既にこうなっている以上は、改憲なしで同性婚を法制化できるだろうか。

…と、考えると、実は重大な問題が起こってくる。

伝統文化的同性愛嫌悪を克服してきた西洋先進諸国では、異性間の結婚を法的に定める以上は、同性間の結婚をも認めなければ、それは法の下の平等という大原則に反することになる、という理解がされてきている。当然だが日本国憲法も法の下の平等を定めた一級の近代憲法だ。その十四条第一項は次の通り。

すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

この第十四条、ならびに、第十一条(基本的人権)と第十三条(個人としての尊重と生命・自由および幸福追求に対する権利の最大の尊重)は、同性間の結婚という課題について、現在の制度に何らかの修正を行う様に要求しそうであり、第二十四条とは自家矛盾を起こしそうだ。

これが憲法と民法の対立なら、憲法が上位なので、問題はより小さい。しかし私たちのこの問題、この様な問題の先例が世界に有るのかどうか、私は知らないのだが、憲法の内部に対立が有るという場合は、どう解決すべきなのだろうか。

結婚類似の……

結婚を一度は男女間に限ると定義したアメリカの州などでは、対立への妥協として、結婚に類似する民法上の”結合”が制定された例が少なくない。これは、よく知られている様に、civil union 等と呼ばれる。しかし、「結婚ではないもの」が結婚と平等ではありえないとされ、結局は同性婚の許容へ進んだ例が多い。

民事的”結合”は、現在の日本国憲法の下にも制定することはできるだろう。しかし、やはり、「結婚ではないもの」は、どうして結婚と平等でありうるのかが問題であり、社会的にも「二級市民の結婚」と見なされるかもしれない。一つの考えとしては、結婚を民法的に定義することをやめ、”結合”一本にしてしまうことで、法の下の平等を満たせるかもしれないが、憲法二十四条における”婚姻”がそこにどう影響するのかが不安要素として残りそうに思える。

おおごとになる

法の下の平等は、法秩序全体に影響力を持つ、大原則的な条項である。だから、これによって二十四条が無効になるのか、それとも、二十四条が有ることで法の下の平等に例外を作ることが認められるのだろうか。

もし、法の下の平等に例外を作っても良いならば、それは一体全体どういう理由で許されるのだろうか。その理由付けによっては、近い将来に考えられる改憲の機会に、法の下の平等そのものが骨抜きにされてしまうという懸念が持ち上がってくる。これは、抽象的な「心配のし過ぎ」ではないと私は考える。

例えば、67年前に廃止された大日本帝国憲法は、こんな条項を持っていた。

第二十九条 日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

ここでは言論の自由が憲法に盛り込まれてはいるが、要するにそれは議会の定める所によって制限されるべきだと、やや婉曲に定めているのだ。旧憲法はこの様に国民の権利を制限し、権力体を擁護する性格が強い(それでも三権分立の中で世襲君主の権力も制限される様にはなっており、きちんと仕組みが守られていればそんなにべらぼうなことにはならなかったはずなのだが……)。今もこんな風に、良さそうなことを言っておいて、それを骨抜きにするのが得意な政治家がそこにいないと思うだろうか。

自由と平等のために

戦後日本では先進的な憲法が定められたものの、権力体の内実は戦時体制を温存しており、今の政権もその系譜の中に在る。そのため旧憲法への引き戻し的な改憲に対する警戒が強く、改憲そのものを忌避し、憲法について考え論じるという社会的経験が足りないままで年を歴た。それは「戦中レジームへの回帰」を防ぎはしたが、同時に自由と平等の充実へ進ませもしなかったという面がありはしないだろうか。

近年では旧憲法下の体制によって日本人は苦しめられたという記憶が薄れてきており、それを忘れないことも大事だけれども、引き戻しを防ぐためには護憲強硬主義では色々とダメで、自由と平等のための議論をそこにぶつけていかなければならないのではないかと考える。