2月28日発売の女性セブン3月13日号(ややこしい)に『「ニューハーフはブランドに」 「ニューゲージ」社長 如月音流さん』という記事が載っていたので買ってきた。ニューゲージという会社に関しては2006年4月 livedoor ニュースに『【ファンキー通信】採用基準はニューハーフであること!?』という記事が載ったときにそのウェブサイトの内容について取り上げたことがある(当時の文体がイヤにツンツンしてて恥ずかしんだけど)。その時の要点は、ニューゲージのウェブサイトがどこかのデザイナーや映画のサイトみたいに Flash を使っていて電子的な意味で可読性が悪いことと、会社の紹介文の中での「ニューハーフ」という言葉の使い方に違和感を覚えたことだった。ここでは、当時考えたことと女性セブンの記事などから改めて考えたことを述べる。


ニューハーフという言葉の定義は、簡単に言えば(元)男性である職業的性転換者あるいは異性装者ということでいいと思う。別の言い方があることを知らないために職業的なそれでない MtF トランスジェンダーや他の女装者をニューハーフと呼んだり、辞書でも説明が正しくないものもあるだろうが、それは定義とは違う(試しに Palm 辞スパという辞書ソフトで引いてみたら、女装した男性同性愛者。特に男性から肉体的性転換を行った人。と言い切ってたり)。

先述のニューゲージの紹介文におけるニューハーフという言葉の使い方は、そこからは大分拡張的に用いていて、私はそれがまずいと感じたので記事の中で指摘した。ところでそのエントリはニューゲージの中の人の目にも触れた様で、その後ニューゲージのメーリングリストのウェブ上のログからと思われるリファラがあった。

それでも私はその大意には好感を持ったので、今回女性セブンのこの見出しを見つけたときは、是非買ってきて内容を読んでみたいと思った。如月さんがニューハーフという言葉に何かこだわるところがあって、それで今こういう見出しの付くような記事が出てきたのであれば、紹介文が何故ああいう言葉遣いになっていたのかも分かるかもしれない。

記事中では如月音流さんの発言としてニューハーフという言葉の意味を説明した箇所がある。

音流さんが「ニューハーフは職業名であり、個人によって動機は異なるんです。性同一性障害で自分を女と思い、普通の会社に勤められないから夜の世界で働く人もいる。儲かるからニューハーフという職業としての選択肢の場合もある」というように、その言葉の適用範囲は広い。

やや言葉足らずかもしれないがこの説明に大きな問題はない。しかし、記事はこの段落に続けて次の一文を入れ、ニューハーフと MtF トランスジェンダーあるいは性同一性障害者の領域の中心を重ねようとしている様に見える(強調部分は原文のまま)。

だが疑いなく、最も深刻な状況に置かれているのは心と体の性差に悩む人たちだろう。そんな彼、彼女らはいまどのような思いを抱いているのだろうか。

記事全体では、ざっと数えたところ「性同一性障害」が少なくとも13回、「ニューハーフ」が少なくとも34回出現する(記者による記述と如月さん他の発言部分と併せて)。「トランスジェンダー」は出現しない。ニューハーフの用法は、適当と思われるところもあるが、 MtF トランスジェンダーと言った方が妥当な箇所も少なくない様に思われる。記者の作為がどのように加わっているかは分からない。

また、これをきっかけに検索してみると、ニューゲージに関するウェブ上の記事がいくつか見つかったので読んでみた。

総合すると、如月さんがニューゲージの設立と経営にあたってある程度積極的にニューハーフという言葉を打ち出してきた意図は察しがつく。個人的なもの、社会に対してという部分、それから経営意志によるものがあるのだろう。

私は、言葉は必ず既成の定義に従って使われるべきだとはしない。言葉を拡張することは、変化を期待または促進したい場合にしばしば必要になるし、一定の効果を持っている。しかし、ある言葉を拡張することが語彙の網の中でどう影響するかということに対する洞察を欠いてはならないし、できるだけ多様な異見を参考すべきだし、これについての意図をよく説明してほしいと思う。

そこで、これについて考えるためにもう一度件の文章を参照したいと考え、ニューゲージのウェブサイトに行ってみたところ、以前の様な Flash バリバリでなくなっていたのはいいのだが、会社の紹介文が改定されていた。ニューハーフ云々という文言はなくなり、代わりかどうか分からないが『ジェンダーフリー』企業とかジェンダーフリーな 社会といった文句が入っている。余計に変な誤解を招きそうである。私の様に好意的に意図をお察しする様な人間ばかりではないのだからと心配する。加えて、自身のサイト上でニューハーフという言葉を使うのをやめておきながら雑誌の取材に対してはこの記事中のように使うというのでは姿勢がよく分からない。

余談ながらニューゲージさんのウェブサイトのソースを覗いてみた。まずテーブルタグをレイアウトに使っているのが目に付く。何故テーブルタグを表組み意外に使うべきでないかはここでは述べない。meta タグが Content-Type の指定しかないのもまずい。デザインがコンテンツの論理構造からではなく物理構造、視覚面から着手された様に見える。

注文を受けて作るものならば HTML 的な意味で良くないものを書かざるを得ない場合もあるのかもしれないが、自分ちのウェブページなんだからもうちょっと品質にこだわればいいのにと思う。土台が論理的にしっかりした HTML ならば視覚的構成はどうにでもできるし、もし世の中で HTML の品質がもっと厳しく問われる様になったときに、え、うちはそんなの前から知ってましたよ、と言えた方が長期的には仕事への信頼を得られるのではないか。今のようなソースでは会社の中に HTML を理解している人がいないと疑われても仕方ないんじゃないかと、やはり心配してしまうのであった。