5月17日は国際反ホモフォビアの日(IDAHO:International Day Against HOmophobia)ということになっている。この日に関連して開催される一つ一つの催しや運動についてここで一々是非を言うわけではないし、やるからにはうまくいけばいいとは思うのだが、個人的には今一乗れない気がしている。ここでは、これについて私の感想と意見を述べる。


この日は1990年に WHO が同性愛を疾病/障害の一覧から削除することを決めた日であることにちなんでいるという。そうであれば、「ホモフォビア」あるいは「同性愛嫌悪症」という言い方は、かつて同性愛が病気と見なされていたこと、また今もそうした見方が残っていることへの意趣返しと捉えうる。

私の家族もよくホモフォビックなことを言う。「ホモフォビアだな」とは思うが、面と向かって「あなたはホモフォビアだよ」と言ったことはない。それはあまりに唐突な感じがする。なにしろホモフォビックであることは今の社会において善良な社会人であるということなのだ。ホモフォビックは社交性である。ホモフォビックは協調性である。多少反社会的なことを言ったとしても、ホモフォビアでさえあれば最低限正常な社会的人間として認められるのである。なんてざまだ!

そこで、人の性格が生まれ持っての素質と生まれてから触れるものとの反応によって形成されるものであるならば、同性愛も異性愛もこの両面を持っていると私は思う。恋愛にも性愛にも、反同性愛にもこの両面がある。両面と言うよりもっと複雑に複合的に人格は成り立って、しかも常に変化している。一人で布団の中に潜る時にはホモフォビックなことを考えもしない人が、朝になって出勤すればホモフォビアになるかもしれない。一人の人が一日に何度もホモフォビアと非ホモフォビアの間を行き来することもあるかもしれない。

だから私は、「一人一人の内面にガン細胞のようにホモフォビアの病巣が宿っている」という意味であるかのように取られ兼ねない文脈ではホモフォビアという言葉を使いたくない。そうすると、ホモフォビアという言葉が有効に機能する場面というのはそう多くないのではないかと思えてくる。言葉が否定的な方向へ働くことには気をつけなければならない。ホモフォビアという一面だけの捉え方ではなく、これについて多面的に語るための語彙を持たなければ、様々な文脈に適応できない。

しかし、日本でこれを主唱しまたは催し事などに動いている人達が、「反ホモフォビア」という看板を掲げてどこまでのことができるつもりでいるのか私にはよく分からない。ホモフォビアと反ホモフォビアという言葉がもう少し多くの人々に認知されるようになった時、これらはどのように働き始めるのだろうか。こうしたことを彼らが考えているのかどうか、運動が広がれば必ずしも思いどおりにならないことに対して準備があるのか、その辺りの戦略意思が見えてこないと私の立場からはただ応援するしかないと思えるのである。