津野海太郎著『小さなメディアの必要』は、1981年に刊行され、一度絶版になった後、1997年に電子書籍として復刊され、青空文庫で配布されている。この本の中に、次のくだりがある。
…。活版印刷には大量の鉛活字や重たい機械がいる。電気も必要だ。しかしガリ版なら、かんたんな道具さえあれば自分ひとりの力で印刷ができる。しかも工夫しだいでは、びっくりするほどうつくしい印刷物をつくることも不可能ではない。…
この本では、『ガリ版の話』と題する一章を設けて、ガリ版印刷と「つづり方運動」やミンダナオ島の運動体との関係などについて記している。そして、私の印象では、この章はこの本の全体の中で、特に重要な意味を持っている。大きな設備が必要なく、人一人が所有可能な道具と手間で出版できるという点で、ウェブページとガリ版印刷は共通している。
ここでは、近頃いろいろと見聞きしながら考えたことなどを、この示唆に富む本からの引用とともにつらつらと並べてみることにする。
ウェブには、共通の基盤の上に大小のウェブサイトが同時に存在している。ウェブページの作成にも、WYSIWYG 的なオーサリングツールやワープロソフト、CMS に内容を投稿して自動的にページを生成するなど、使用するプログラムの価格や使用許諾条件、規模の違いも含め様々な方法がある。しかし、どの方法を使おうが結局は HTML や XHTML 形式のテキストデータが出力されるのであり、任意のテキストを出力可能なコンピュータプログラムであればどのようなものを使ってもウェブページを作成することはできる。CSS だって同じことだ。
小型で、費用がかからない。かんたんに増刷したり、複写したりできる。グループの意欲、まなび・はたらくことへの熱意、そして、いくばくかの創造力や想像力があれば、すぐにはじめることができるもの。…
ウェブサイトは、世界に向けて発信ができると云うが、実際には小規模なウェブサイトがそれほど多くの人に読まれことは希だろう。それでも、発行部数に縛られないし、読者が増えても増刷の手間はない。その点では、従来の小さなメディアを遙かに超える潜在力を手にすることができる。瞬間的に普段より多くの人に読まれることもある。こうした可能性を最大限に引き出すべく備えることは、難しいことではなく、むしろ簡単なことなのだが、その簡単さがわからないとウェブは間違える。
大きなメディアは、いつも新しい話題を求めている。ある運動がマスメディアに取り上げられることは大きな意味を持つかもしれないが、それだけでは継続的に発信することはできない。伝えたいことをきちんと伝えてくれるかどうかも分からない。小さなメディアが必要になるはずだ。
…。ガリ版とともにはじまった北方つづりかた運動は、こうして活版印刷によって息の根をたたれた。運動にとってなにが「適正技術」であるかを知るのはむずかしい。私たちはしばしばその判断をあやまる。
運動体が小さなメディアを作るとき、どのような技術を選ぶかということは大きな意味を持つらしい。「この作成ソフトを使えば、あらかじめ用意されたデザインに文章を嵌め込むだけで見栄えのいいホームページが完成します」などと聞いても、安易に飛びついてはいけない。入力欄にテキストを打ち込むだけでもブログは形になるかもしれないが、これにも注意が必要だ。原稿をコピー機に流し込めば印刷はできるだろうが、コピー機の操作を覚えるのは技術を得ることではなく、むしろ捨てることでありうる。
ホームページ・ビルダーやはてなダイアリーを使っても、単純なテキストエディタで HTML タグを直接打ち込んでも同じ HTML 文書ができる。だから、HTML を直接読み書きできた方が意図通りのものができるし、あるソフトの操作やブログサービスに固有の記法は他では役に立たないが、HTML や CSS はウェブの共通言語なのだ。派手でなくても運動の理念を視覚的に表現できる外観であった方がよいし、アクセシビリティに最大限配慮するなら出来合いのデザインテンプレートでは都合がよくない場合もある。社会から障害をなくそうと主張する運動体がバリアフルなウェブサイトを作っていたのでは話にならない。
運動体がウェブにおいて小さなメディアを作る場合、伝えたいことをどう伝えるかを自由に決められるだけではなく、重要なことが他に少なくとも二点ある。一つに、いつでも読者からの反応がありうること、またそれを意識することや、実際に反応を受けることで伝え方を考え直し、語彙を鍛え、理論を練ること。一つに、運動体の成員が小さなメディアの編集や必要な技術の習得に共に取り組むことを通じて、性格や境遇、意見などの違いを越えて協力できる場を形成し、関係の線を保全すること。
幸いにして、HTML は手づかみで覚えられるような技術である。大雑把に極端に言い切ってしまえば、段落を <p>と</p>で囲むことを知っていれば最小限の HTML 文書を作ることができる。これに二三の知識を加えればウェブに公開できる品質の最低限度のウェブページが完成する。HTML の基本を覚え、より適切なコンテンツの記述を目指すことから始めて、CSS を組み合わせることを知り、熟練すれば見た目にも綺麗なウェブページを手作りできるようになる。
ほんの少しのことを知れば小さくて単純なページを作ることができるから、一歩を踏み出せば始めたその日から上達する喜びを味わうことができる。少しずつ覚えていけばいいから、先に知った者は後から進む者へ教え、また教え教わる関係を作れば、偉い先生は要らない。そうしてある程度わけがわかるようになれば、できることとできないことを踏まえた上で、やり方としてオーサリングツールやブログサービスを選ぶことにも目が利くようになる。こうなれば伝えることと動くことの間によい循環を生み出すことができるだろうと私は考える。
もう一つの理由は、人びとが大がかりな機械や高度な技術を必要とする印刷物になれて、いつのまにか、そういうものだけが立派な印刷物なのだとする暗黙の基準をうけいれてしまい、すすんで自分たちの力を手ばなしてしまうことにたいするおそれである。…、われわれとしてはまずマイクロ・メディアに――ガリ版によるニューズレターの運動のほうによりおおくの力をそそがなくてはなるまい。
ガリ版刷りは、かつて学校でテストや学級通信を刷るのによく使われていたが、30年ほど前を境に FAX 製版機やワープロなどに取って代わられるようになったという。私が小学校にいた80年代後半頃にはすでに一線を退いていたはずだが、まだ生きた言葉として「ガリバン」「ワラバン」という音を聞いた記憶がある。何かの機会に先生が生徒にガリ版をやらせることもあったようだし、先生方の中にはガリ版の経験者が多かったはずだ。
私自身は残念ながらガリ版刷りの技術に直接触れる機会がなかったが、先生方の中に特殊な訓練を受けた異能者が居たという印象はないし、今調べてみてもガリ版刷りというものは手づかみで覚えられる技術であったと思える。私の感じ方が確かなら、ガリ版の技術と、一見簡単そうな方法に依存せずにウェブサイトを作る技術は同じ種類に属する。そして、手づかみの技術を手放さないことが、運動体にとって大きな力になるならば、どうしてガリ版を覚える程度の手間を惜しむことがあるだろうか。
小型で、費用がかからない。かんたんに増刷したり、複写したりできる。グループの意欲、まなび・はたらくことへの熱意、そして、いくばくかの創造力や想像力があれば、すぐにはじめることができるもの。第一の問題は、どこで、どのようにはじめるかだ。ガリ版印刷がただちに必要とされた。だれがその技術を身につけるか。…
一般人に数学の教養は必要であったとしても、数学者と同じような形で数学の知識を持っている必要はないように、一般人が情報技術の専門家と同じような形で情報技術を手にする必要はない。それはむしろ無駄が大きいから、一般人のための技術の形が必要になる。ただし運動体にとってのその形は技術を自動販売機のようなものに詰めてしまうことではない。
ウェブは一般化してからまだそれほど長い時間を経ていない。誰はどのようにその技術と接するべきかということについてはまだわずかにしか考えられてはいない。どんなウェブサイトやページがよいものなのかという評価の仕組みや価値観も確立していないから、プロに頼めばよいものができるというものでもない。だからこそ、この道具を「私たち」の意思と手によって利器に磨き上げることには大きな可能性があると私は信じる。
鶴見俊輔が『現代日本の思想』(久野収と共著)の中で書いている「この運動のコミュニケーション・ネットワークは、運動家がたがいにまったく会見する機会もないままに、自分のうけもちの学級でつくった文集をたがいに送りあって、批評するということでなりたっていた。…」。 このような多元的なコミュニケーションのしくみが成立するためには、ガリ版の普及が不可欠の条件だった。活版印刷には大量の鉛活字や重たい機械がいる。電気も必要だ。しかしガリ版なら、かんたんな道具さえあれば自分ひとりの力で印刷ができる。しかも工夫しだいでは、びっくりするほどうつくしい印刷物をつくることも不可能ではない。
今や私たちが会見する機会もないままに交換可能な情報の種類分量はかつてとは比べものにならないほど多く大きくなっている。そのときに、採用する技術やプログラムの許諾条件や開発形態が、運動を制約したり、あるいは躍動させる可能性が一般に認識されていないことを私は懸念する。金銭を払って購入できるサービスや大企業が開発するプログラムだけが立派なものだと思いこむのは権力に負ける道である。閉鎖的でプロプライエタリなものよりも、開放的でフリーなものの方に運動を発展させ社会を改善する引力があると私は信じる。
HTML の読み書きができるようになること。文書の構造と外観の分離を理解すること。アクセシビリティとバリアフリー。より適切にコンテンツを記述できるようになること。互いの習熟程度の違いを測り、役割と負担の分担ができるようになること。自律的に発信するための技術を手放さないようにすること。むずかしいこととやさしいことを取り違えないようにすること。