「尊い犠牲のおかげで今の平和がある」などと私は思わない。「犠牲」とはそれと引き替えに何かを得るためのいけにえのことであるとすれば、それではまるで平和を得るために戦争が必要であったかのようであり、戦時下の出来事を霧の中に隠そうという欺瞞を感じずにはいられない。しかし、戦争などなければそもそも平和だったのであり、しかも現実にはあれだけの人命を煮え滾る釜に放り込んでもなお我々は質の良い平和を得てはいないのである。
大きな戦争を経て、誰が何を得たか。アメリカは敵の失態に乗じて国外に軍隊を常駐する足掛かりを得た。今や唯一の超大国と呼ばれるようになったアメリカ一国が世界中に軍隊を展開するという異常な状態が恒常化している。平和を守ると称する軍隊の存在が緊張を高め、その状況の中で核拡散や軍人の性犯罪を含む様々な問題が起こり、今も熱い戦争がさらに多くの人を殺し、或いは生きる人を追い詰め、また、戦場とは縁がないと信じている人々の精神をも知らず知らずの裡に侵し続けている。
だから、「9・11」があったとき、ある人々はそこに「新しい状況」を読み取ろうとしたが、しかしそれは旧世紀から続く軍事力で偽造する贋作平和の実態が抉り出されたのであって、力関係の変化はあっても、質的には二十世紀の大戦争時代から国際社会はまだ変わっていないということの表れとしてこれを見るべきだったのではないか。約束と安心の連帯がなければ我々は良質な平和を得ることなどできない。
近代国家という法人に籍を置く私たちには、たとえ自分が生まれる前のことでも国家のしたことを何らかのかたちで引き受けなければならないときがある。また過去の堆積は否応なく未来の基礎になるのであり、地質を正しく捉えなければ建物は丈夫でも下から揺すぶられると沈んでしまうようになる。国家を改善し、かつ世界の人々が幸福を追求する権利を妨げられないようにするために、浅い国粋趣味、上辺だけの慰めに縋るのはやめ、人の命は無駄に失われうると認めることがどうしてできないだろうか。失われた命を無駄にしたくなければ生きている者が努力を重ねなければならないのであって、安易に感謝を捧げることは却ってこれを無駄にすることに他ならない。
世界は大きいが、人間はまだ変わることができると私は信じる。