第三回より引き続き、連載第四回。

 ウェブとは何でできているかといえば、httpHTML から成り立っているといえる。http とはデータを受け渡しするコンピュータプログラム間での会話に使われる符丁であり、HTML とはコンピュータネットワークを介して人から人へと文書を送り届けるための梱包や荷札のようなものである。
 ウェブで何らかの発言をするということは、多くの場合何らかのかたちで HTML を記述するということになる。HTML を直接記述しない場合でも、2チャンネルにベタテキストで書き込んでも、はてなダイアリーではてな記法を使っても、Wikipedia で MediaWiki の記法で書いても、結局は HTML 形式に変換されて読者に届けられる。
 ウェブ上で言論活動を行う上で肝要なところだが、この HTML の扱い、HTML に対する認識が問題である。あるいは、HTML はある面では過小評価され、また別の面では過大評価されている。


HTML は「難しい」のか?

 実際には HTML の基本的な部分はごく簡単なものである。どのくらい簡単かというと、鉛筆で原稿用紙のマスを埋めるより簡単だと私は思っている。しかし、「難しい」と思う人がいるならそれはそれでその心情は尊重したい。
 ここで、何かを「難しい」と思う場合には二種類あるとしてみる。一つはあるものの内容を見知った上で「難しい」と判断する場合であり、もう一つはあるものの内容を知らないがために「わからない」という情を「難しい」という言葉につなげてしまう場合である。

 例えば、「英語とロシア語はどちらが難しいと思うか」と訊かれたときに、多くの人は「ロシア語の方が難しいのではないか」と答えるかもしれない。そうであるとすれば、それは明治以来日本がロシア語を軽んじてきたことと、近年の英語偏重の表れだろう。実際にはロシア語の方が日本語生活者に分かりやすいと思われるところもあり、平らかに比べればどちらが難しいとは言えない。
 ロシア語の方が難しい、と思われているとすれば、それは実際的な英語学習の容易さの裏返しなのだろう。英語は、義務教育に取り入れられていることに加え、全国各地に塾が立ち、教材も豊富で、様々な学習法から自分に合いそうなものを選ぶことができ、教学の多様性が確立されている。学ぶ人が多いことで「あいつにできるなら」という意識が生まれやすく、「適切に訓練すれば誰でも話せるようになる」と思っている人が多いのではないだろうか。「英語は役に立つ」という社会的認識も学習意欲を後押ししていると言えるだろう。

 HTML に対して「難しい」というのは、「知らない」の置き換えである場合が多いように見える。「難しい」と表現したくなるのはそれなりの理由があるだろう。それは感想としては聴こう。しかし、よく知らないものに対して「難しい」というものは意見としては取り扱えない。
 HTML が少なくとも英語より簡単であるのは明白な事実である。発音を覚える手間もなければ聴き取りもない。語彙も少なく、文法も単純で、規格化されているだけに頭を悩ませる自然言語の曖昧さもない。

HTML の実用局面

 WYSIWYG 形式のエディタに加え、Wiki やブログのような直接 HTML タグを読み書きせずにウェブページを作成できるツールの普及は、一見「ソースを知らなくていい時代」を思い描かせる。しかし、現実には、「自分が何を扱っているのか」理解する必要は、最近のウェブブラウズ環境の多様化によって増している。
 パソコンのモニタの大きさ、解像度の多様化、携帯電話のいわゆるフルブラウザ、小さい画面向けにページを変換するゲートウェイサービス。様々な環境の読者が情報を受信するとき、筆者には自分が何をしていて、どんな媒体を使っているのか知っている必要が生じる。
 あらゆる環境での表示を確認することは困難だが、「妥当に」記述された HTML であれば最大限「情報をきちんと伝える」ことができる。

 とはいえ私は何も全ての人が HTML を直接読み書きすべきだとは言わない。一人一人に適したやり方というものは選べるべきだろう。私も普段のマークアップにはスクリプトを使っているし、ワープロソフトや WYSIWYG 的なエディタの中にも割合良質なソースを吐くものが出てきている。しかし、どんな道具も使い方を間違ったら意味がない。いろんな手法を使う人がいて、相互に影響する中で全体がよい方向に行けばいいのだが、現状はそうなっていない。
 今はこっちから見て「お前の頭ならよく分かるはずだろう!」と思うような人がまだ分かっていない。まずは「お前の頭なら分かるだろ! なぜ練習しないんだ」と思うような人にもう少し頑張っていただきたい。HTML をきちんと理解する人はもういくらか増やすことが出来るし、増えるべきだと思う。より多様な性格や言葉を持つ人々によって HTML が受け止められることは、電子的手段による言論の自由を保全することに寄与するだろう。要はそこに適切な手引きがないことが問題だと思うのだ。

 次回に続く。