まえがき

 前回、「次回に続く」と言っておきながら前回から既に九ヶ月を過ごしてしまった。これには理由がある。昨年9月27日のやりとりからのあれこれを数回に分けて記事にするつもりで、実際に書いてみた。ところが何だか、書こうとしていることと、書きえたことの間に、しっくりこないものがあり、考え直す時間をとることにした。この稿は2009年1月に手を着け、破っては捨て、破っては捨てしているうちに数ヶ月を過ごし、結局7月中旬から書いたものを最終稿とする。

 私はひょっとすると書きようのないことに取り組んでしまったのかも知れない。今、The Internet という、かつてない即時性と応用の幅広さを持つ通信手段が世界に広がりつつある。これが将来何をもたらすのかまだ誰も知らない。状況が変化する速度に語彙の対応が追いついていない。これは様々な場面で大きなストレスを生んでいる。しかし古い言葉の枠組みで捉えようとすることは新しい物事を歪めるかも知れない。だからどこまでも誠実であろうとすれば、私には語ることができないのかも知れなかった。
 だけれども、通信や交通のための技術の拡張によって、世界観が変貌し、社会や文化を変容させていくということは、人類の歴史の中で何度も繰り返してきたことでもあって、これから何が起こるのかは分かっている、私はもう知っていると言うこともできる。古い語彙を知っているということが、役に立つかも知れない。

 考え方の違いも私を悩ませる。
 当日最も足をすくわれる気がしたのは、参加してくれた諸氏が過去の個別の事例の問題にあたろうとする意欲を、思った以上に強く示されたことだ。それが必要なことだと言われればそれはその通りだし、それ自体私も興味のあることではあるが、それだけが必要なのではないし、一回の話し合いで全てを網羅することは出来そうもない。それにそういうことを主題にするなら、私は主催者として全く適任ではない。
 みんながすぐに腑に落ちるというようなことなら、私にとっては取り組む価値はない。もし私に役割があるとすれば、それはわかるということがつまづきの石にならないようにすることだ。
 前向きになるということは、わからなさを捉えていくということ私は思うが、そのために不確かなことに言葉を及ばせようとすれば、我流の哲学が入り、そうすればあなたは笑うかもしれない。あなた方は複雑なことを考えられるのかもしれないが、私はもっと単純な田舎者だ。

 ここからの何十行かは、当日私が十分に伝えられなかったことについて、考え直し、再構成した内容で埋まっているはずだ。時間があいてしまったので、以前に書いたこととの重複は確認しない。あるいは先述したことと矛盾したことを書くかもしれないが、今の私の意識の流れを記しておく。一つの記事に全てを収めることは出来ないので、書き漏らしたことについては今後別の場で補いたい。
 まだ誰も語り尽くしたことがないはずのことについて述べる。ここでは過去に起きたこと以外はまだ何も起こっていない。しかし私はわからないということが前進力になることを知っている。

この記事のキーフレーズ一覧

  • わかる
  • わからない
  • 「打ち出し方」と「受け取り方」の問題
  • 分離可能な、より小さい単位
  • HTML
  • KISS の原則
  • 多様性!
  • 気持ちを技術となじませる
  • 戦力が貴重だと思うなら頭と手足をどう使ったらいいか
  • たくさんある中の一つ
  • 電子的文書は、印刷物とは大きく異なる制約の幅を持っている
  • 明治の変革期を作った人々は、江戸時代の育ち
  • ソフトウェアの世界では、作ることと使うことを区別する意味はあまりない
  • Xanadu
  • GNU Hurd
  • どのようにしてソフトウェアを選び、どんなフォーマットに文書を記録すべきなのか
  • コンピュータとネットワークの時代に対応する重要なソフトウェアの初期の実装を、正岡子規や夏目漱石が行ったとも言える

 私がこんなことを考え始めたのにはきっかけがある。例えば電器ならば、気になった製品があればメーカーのウェブサイトで外観や仕様の詳細、取扱説明書など、雑誌や新聞に載らないような情報まで得られる。市民という立場から見て、他のものによって濾過されない、一次情報を得やすくなったことが、インターネットによってもたらされた大きなものの一つだ。
 また、一部の製品では、利用者のコミュニティが自然発生的に形成されることがある。そういったところでの情報発信・交換を便利にしたいという需要が、掲示板やブログを構築するスクリプトややりとりのためのお作法などを発達させる原動力の一部となった。いわば活動のしくみがコンピュータネットワークに Implement されている。
 それが当たり前のつもりで見ていくと、フェミニズムやセクシャルマイノリティなどの運動のウェブにおける活動の仕方は、私には頼りなく感じられることがある。「簡単そうだからホームページビルダー」「流行ってるからブログ」式の、自律性が薄く、一貫性を損なう傾向が見られる。パッと見の印象や目先の変化に囚われやすい傾向があるとすれば、それはコンピュータとネットワークを扱う上での「原点」と言えるものを持ち得ていないか、または不十分であることを示しているように見える。


 それは自動車の運転と似ているかもしれない。自分の体を操るなら指の先肌の面まで神経が通っているからナマの感覚のままでいいが、乗り物の表面が何を感じているかはわからない。だから人とぶつからないようにするためには、別の感性が要る。それは「いつものこと」だったりする。手紙、電話など何かを媒介して人と接するにはそれぞれでとるべき態度や考えるべきことがある。テレビのようなこの社会で数十年という単位の歴史を刻んでいる媒体で、あの「老人ショック死事件」から半世紀近くが経った今でも「打ち出し方」と「受け取り方」の問題はつきまとう。

 コンピュータとネットワークの利用について、初歩のところでまごついてしまう人がなぜそうなるのかは知らない。全ての個別の問題に効く魔法の薬は見つからない。私が考えることができるのは、一般に共通する基底の問題しかない。まだ社会的に慣れてはいない時期だと考えることもできるが、日本の場合は特有の問題がありそうでもある。以下引用。

 国内も海外もサポートが必要なのは同じだが、日本はさらに手厚いサポートが求められる。

 「日本では、サポートは製品に無料で付いてきて、製品固有の問題でなくても、メーカーが一から解決してくれると期待するユーザーが多い」。エムエスアイコンピュータージャパンの広報マーケティング担当である三好正行氏はこう打ち明ける。続けて「マニュアルに大きく書いてあること、他社製品との組み合わせたときの操作方法といった、自己解決できたり、答えを出しづらかったりする質問がどんどんくる」という。

日経 Linux 2008年11月号「特別企画─Ubuntu を投入したデルに他社は続くのか─超低価格パソコンに Linux が採用されないホントの理由」

 またうろ覚えになるが、以前コンピュータウィルスについて扱った新聞記事で、「パソコンがウィルスに感染して調子が悪くなったので買い替えのために来た」という電器店の客から取った言葉を載せているものがあった。「だからウィルスは怖い」という感じで記者は当たり前のようにまとめているんだが、オイオイちょっと待てよ、そこは悪くても OS の再インストールでしょ、とはちょっと慣れた人なら分かること。しかし最近のニッポンのショウヒシャがいかにも言いそうなことで、それを記者が何の留保もつけずに扱っているあたり、ある意味で秀逸だったと思ったりする。
 コンピュータウィルスに感染したからといってパソコンを買い替える必要がないのは、「パソコン」がハードウェアとソフトウェアという「分離可能な、より小さい単位」のものによって構成されることを知っていれば分かる。そうした切り分けができないショウヒシャ像は、PC ベンダーのサポートなどに過大な負担をかけるショウヒシャ像とつながっていそうだ。そのサポートの費用は、結局は製品の価格に転嫁されて消費者が支払うことになる。

 例えば、古典的な LEGO のブロック。小さくて単純なブロックの組み合わせで、人によっては驚くほど大きくて複雑な作品を造る。ブロックを組むこと自体は簡単で、ほんの少しのことを覚えれば幼児でも何らかのものを造る。もし、ここに、LEGO ブロックが何かの形に組み上げられたものから、一部のブロックが外れたからといって、「大変だ、修理を依頼するために LEGO に電話をしよう」などと言い出す人がいたら、いい笑い種にされてしまうかもしれない。お笑いでしょう? でも組み立てられた状態のものしか見たことがなく、それが「分離可能な、より小さい単位」のものによって構成されていることを知らなければ、無理もないことかもしれない。実際 PC やインターネットに関することについては大真面目にそんなことを言っているのが今のニホンジンだ。

 現代のコンピュータのソフトウェア面の操作は(従って、コンピュータネットワークに関する操作も)、キーボードを叩くことと、ポインタ(マウスなど)を動かしクリックすること、この二つを覚えるだけでいい。メールを書くのも、HTML を打つのも、プログラミングをするのも、手の動きは同じ。その点では、実に簡単。この一揃いの手技を覚えればそれだけで可能性が広がる。三原色が限りない彩りを生み出すように、指で叩くという単純な動作の繰り返しが電子の万象を作り出す。だから見方が違えば「特別な物があるようには見えないのに、何でああいうことができるのか分からない」という印象を受けることもある。
 それはどんな分野にも高度な領域はある。しかし自動車に乗って買い物に行くのに F1 ドライバーのような技能が要求されるわけじゃない。誰もがレーシングドライバーにならなければいけないと言われたら、ほとんど誰も運転免許を取ろうと思わないだろう。実際に誰にでも必要になるのは、歩行者や自転車、他の車両がそれぞれに動いている中を安全に走るための事柄。それが分かるのは、同じ自動車の運転といっても、その中に F1 あり、バスあり、重機ありといったように、「分離可能な、より小さい単位」の分野があって、その全てを操れるようにならなければいけないわけではないということを知っているからだと思える。

 「分離可能な、より小さい単位」があることを知っていて、それの組み合わせ方によって様々な「より大きく、より複雑な物」ができることを知っていれば、物事を柔軟に捉えることができる。今まで自分が見たことのある、すでに組み立てられた「より大きく、より複雑なもの」とは別の形の、「より大きく、より複雑なもの」が存在しうることを想像できるようになる。それによって、より多くの選択肢を想定して、その中から自分に適していそうなものを選び出すことができるようになるだろう。「小さくて単純なままにせよ」という、コンピュータプログラム設計手法についての有名な格言「KISS の原則」は、開発者だけでなく利用者にとっても傾聴に値する。

 ここに LEGO ブロックがあるとする。あなたはこのブロックの凹凸を噛み合わせれば何らかのものに組み上げられることを知っている。あるいは LEGO を組み立ててくれるロボットをあなたは所有している。これはある意味で技術を把んでいるということだ。例えば誰かが用意したテンプレートに内容をはめるだけでも形は作れる。しかしそれだけでは十分に考えたとは言えない。

 誰でも自動車に乗ればハンドルをひねるだけで人を傷つけることができる。無神経にハンドルを扱うほどその危険は増す。ウェブならば例えば色覚にある種の特徴を持つ人を排除するようなページを作るのは、実際ごく簡単なことだ。視覚的な問題はわかりやすいから例として挙げるので、もちろんそれだけのことではない。交通事故に軽微な接触から玉突きまであるように様々な形の問題が起こりうる。ここで話しているのは内容ではなくて体裁についてのことだ。つまりは内容を格納する入れ物の作り方によっては、あなたや私が意図しなくても誰かを差別や排除してしまうことがあるという問題について話している。

 今ウェブには悪い手本が多い。意味もなくページの横幅を固定する、テキストだけですむようなところに見栄えのためだけに画像や Flash を使う。無闇に淡い色を使う。他にもあるが、奇妙なのは、パソコンの画面サイズの変化、いわゆるフルブラウザを搭載した携帯電話端末の普及、ネットブックの登場などで、閲覧する側の環境は多様化しているのに、ウェブページのデザインは環境依存度の高いものが増えているように見えるということだ。HTML 自体は本来、ネットワークに接続された多様な端末に対して柔軟性を持つように設計されているにも関わらず、人間はこのように振る舞っている。
 営利的な理由でページビューやサービスの利用者を増やすためというところからウェブデザインを評価する力が強く働いているのに対して、社会的あるいは人間的な面から評価する力が今のところ弱いという点に目を向けるべきだろう。

 私が折角、以前より大きいディスプレイを買ってきても、広がった分自由に使える領域が増えるとは限らない。意味もなく横幅を勝手に固定するようなスタイルのウェブページがあり、しかも漸次横幅を拡大すれば、ウェブブラウザのウィンドウを以前よりも大きくせざるを得なくなり、私の作業環境をよくするための投資はいくらか無駄にされてしまう。

 ワープロ専用機の時代には、多くの人が、最終的には紙の文書を刷り出すためのものとして電子的文書を捉えていた。パソコンとインターネットを手に入れると、誰でも電子的文書を電子的状態のままで活用する方途があることに気付く。ワールド・ワイド・ウェブ。しかし未だに多くの人が、印刷向きの発想を電子的文書に引きずったままでいる。それはいつものことだったりする。人間は新しい道具を手に入れると、まずはそれを今までと同じものを作るよりよい手段として使おうとする。それによってもたらされる新しい境界があることが十分に分かるまでには時間がかかる。
 決められた判型に文章や写真を配置し、印刷されたものを手にした人全てが同じものを見る。そういう印刷物の発想をそのままウェブページに引き移す。どう表示するかは最終的には読者側で決められるというのが電子的文書本来の利点なのだが、紙に似せようという涙ぐましいほどの無駄な努力はウェブの利便性を損ねている。検索のしやすさ、環境によって表示を調整できる柔軟性、機械的な音声読み上げや点字ディスプレイへの転移のしやすさなどを阻害する要因は、おそらくこうして作られる。
 そして表示環境の多様性とは、単にハードウェアやソフトウェア面の多様さというだけではなく、それを使う人の生理的、経済的、あるいは感性や感情の多様性とつながっているのだ。多様性! 私たちは別の場面ではこの言葉を何度も使ってきた。

 あなたは道路を作ることはないかもしれないが、あなたの投稿によっていくつものウェブページが生成されている。そして、ウェブから段差をなくすのは、道路から段差をなくすよりも作業としてはずっと簡単なのだ。どういうつもりでやっているのかと思うことが少なくない。悪い手本はたくさんある。だからこそ、人の生き方、人の置かれどころ、人の気持ちといったことについて、社会に対して求めたいことがあるならば、ウェブ、ひいてはコンピュータとネットワークを利用する場合に、考えることがあると私は思う。

 デザインを完成させるために内容を詰めるのではなく、内容をよりよく表現するためにデザインというものがあるならば?

p> ここに古典的な LEGO のブロックがある。あなたが、「分離可能な、より小さい単位」のブロックの凹凸を噛み合わせていくことで、「より大きく、より複雑なもの」ができることを知っていれば、それを使って何らかのものを作ることはできる。これは技術だ。しかしそれだけでは意味のない塊しかできないだろう。あるいは誰かの指示に従ったり、あらかじめデザインされた LEGO の製品を買ってくれば、整った形のあるものはできる。これも技術だ。しかしそれだけでは自分が何をしているのかあなたは十分に知ることができないだろう。それが技術だ。
 何らかのものを媒介にして何がしかのことを伝えたいという気持ちがあるならば、その気持ちを技術となじませることによって、意味のある形というものができる。それが表現だ。

 いま目の前にあるものが、「分離可能な、より小さな単位」の組み合わせ方がたくさんある内の一つに過ぎないことを知っていれば、まだ実現されていない、別の組み合わせ方を想像できる。これは針の先のように小さいが、未来を覗く穴だ。かりそめのこととしても、この小さな穴から漏れる光で現在、過去を照らしてみることもできる。

 ここに小麦粉がある。小麦粉を粉のまま飲み込めるという人もあるいはいるかもしれないが、多くの場合ここに水を加える。あなたは、ほかの材料を混ぜたり、火を加えるといった、基本的な料理の方法を組み合わせることによって、小麦粉から様々な形の食べられるものを作り出すことを知っている。あなたは今日客を何人か呼んでいて、彼らの性格や関係の仕方によって料理に変化を加えることができる。あるいは来客の中に食品アレルギーを持っている人がいることを知っていれば、それによって材料を変えることができる。基礎を熟知するほど、応用は臨機応変にして窮まることなく、練習を積むほど、形態は千変万化にして尽きることはなくなる。

 ここにおいて、もしあなたが、コンピュータとネットワークが展開していくという中で、これを利用して、その活動の理念を十分に表現し伝えたいと思うのならば、どんなことを、どのように把むべきなのか、全く明らかであるように私には思える。目の前の変化に惑わされることなく、一貫性を持ち、自律的な運動をしてほしいと私は願う。

 「小さくて単純なままにせよ」。あるいは「馬鹿で単純なままがよい」と誰かが言った。もし80m四方の鏡を作るならば、全体を一枚のガラスで形成するより、複数の小さい鏡の組み合わせで作った方が、機動性、修理の容易さ、形状の柔軟さを得られる。

 運動体を構成する複数の成員が役割を分担してウェブサイトをといった場合には、もちろんみんながみんな、同じことを同じように習得している必要はない。掲載する内容を記述するには、キーボードを叩いて文字を打つという、コンピュータを使った知的生産の最も基本的な行動ができるだけで最低限のことができる。しかしそれこそが頭を使わなければならないだけに最も手間暇がかかり、一番人数がものをいうところだと思うのだ。技術論的なものだけですむような部分は、省力化の方法がいくらでもある。ただしこれはあっち側とこっち側というようにはっきりと分かれるものではなく、この両者が重なる領域も狭くはない。だからそれぞれの立場で何をどのように把握しておくかに違いはあるにしても、直接手を触れないところについて何の理解もいらないのではない。
 もし私がそうしたことで誰かから何かに参加を要請されることがあるときには、役割と、同時に権限ならびに責任の分担について、明らかにすることを求めるだろう。場合によっては活動に係る規約や憲章のようなものを明文化する必要を主張するだろう。
 顔を知った仲間だけで活動すればよしとするのか、それとも、遠隔の誰かと協働することもありうることを前提にして、内部の連絡の方法や、そのために必要とされる感性や語彙や作法を獲得していこうとするのか。この違いは大きい。媒体を以て、制作者と読者という立場を隔てるのか、それとも、なだらかに繋ぐものとするのか。印刷出版や電波放送と比べてコンピュータネットワークの特質は何かということであり、従ってどうするのが最も無駄に戦力を労しないかということでもある。戦力が貴重だと思うなら頭と手足をどう使ったらいいかということでもある。

 活動を自分の手の中で統御しようとすれば、自分の器量を越えるようなことは起こらない。

 ただ当然ながら、ある運動または活動は、そういったものがたくさんある中の一つに過ぎない。一体何がたくさんある中の一つなのかといえば、今このときにそういったものがたくさんある中の一つということであり、また過去または未来にそういったものがたくさんある中の一つということになる。だからある意味ではある運動または活動が、何をするかなどということは、全く以て自由ではある。しかし十分な選択肢を見渡した上で選び取っているかということはいつも問題だ。

 印刷物では部数や判型などによって、頒布可能な範囲や表現力に規制を受ける。その制約の中にある発想を、そのまま電子的文書に引き移すようなやり方であっても、それを選択するという判断ができているのならば問題としない。コンピュータネットワークを通じて頒布される電子的文書は、印刷物とは大きく異なる制約の幅を持っている。にも関わらず発想に印刷物から規制を受けていることに無自覚だったり、どこかに紙とインクの方が上等であるというような意識を持っている人が多いように見える。個人的な印象に過ぎないが、むしろ数年前よりも増えているようにさえ感じられる現状なのだ。どうしてこんなことになったのだろう?

 何が原因で何が結果であるかは私には調べがつかないし、主要な興味の対象でもない。ただ自分の目に見えるところを述べれば、既に知っていることにこだわりを示す性質は、変化への欲のなさ、ペーパーテスト的な正解や辞書的定義、類型に依存したものの見方、暗記基調の教育と相性がよく、人間関係を規制する社会的文化的条件との繋がりにも注意すべきものがあるように見える。
 この情報の大航海時代にあたって、何を、どのように学ぶべきかということである。日本の教育あるいは学習の歴史を振り返ってみれば、明治の変革期を境として、それ以前と、それ以後に分けることができる。それ以前とは、領地や身分、職域などによって様々に分かれていた時代であり、それ以後とは全国統一の公教育の時代ということになる。
 明治の変革期を作った人々は、江戸時代の育ちだ。明治以降の公教育が、日本の人間というものをどう変えたか。無論のこと私たちは公教育が行き渡った時代に育った。しかしいま学校でするようなことだけがものごとの学び方、考え方だと思うのは昔を馬鹿にしすぎている。江戸時代の職人や商人の教育、漢学や蘭学の学習法の中に、全部ではないが思い出すべきことがないか。逆に、江戸時代からあるものでも、明治以降の公教育と結びついて残り、あるいは変質してきたものに、もう捨てた方がよいものがないか。
 液晶画面の前でキーボードに手を置いて、こう考えているのは21世紀の私だ。

 日本の近世と近代の違いでいま思い起こされるもう一つのことは、技術と人の関係の仕方である。江戸時代は technology をほとんど発展させない時代だった。しかし人々が蒙昧であったというわけではない。貨幣経済の発達は知的水準の向上とともにあった。新種の道具、機械はあまり作られなかったが、代わりに職人的技能が発達した。練度の高さを尊敬する精神的風土があり、練習を積むことによって便利になるということを知っていた。黒船来航からわずかの間にいくつかの藩が蒸気船を自作できたことを思い合わせたい。
 明治以降、日本は欧米諸国から技術や科学を輸入し、工業化を進めた。それによって日本人は新しい technology によって新しい機械が開発され、そのために低い練度でもかつてより多くのことができるということを知った。味を占めたというべきかも知れない。このことは日本人の精神性を知らず知らずの内にも変えてきた。見直すべきところがある。
 今わたしがこれを書くために操作しているコンピュータもまた工業製品だ。その面からは IT 革命といっても工業革命の延長線上にあるように見える。しかしコンピュータの重要な「部品」であるコンピュータプログラムは工業製品とは言えない。プログラムの開発はむしろサービス業や文筆業に近い。コンピュータプログラムはまた、コンピュータの機械装置を指すハードウェアに対してソフトウェアとも呼ばれるが、このソフトウェアという言葉は、広義では利用のためのノウハウなど、コンピュータに関わる無形のもの全般を含む概念だ。そして私の見方が確かなら、ソフトウェアの世界では、作ることと使うことを区別する意味はあまりない。ソフトウェアを製造するのに、メインフレームを使おうが、ネットブックを使おうが、何ができるかは結局は人による。この点、工場を必要とする工業製品とは大きく異なっている。この違いが私たちの社会、文化、精神に何をもたらすのか、その全容をまだ誰も知らない段階にある。

 いま想像しうる選択可能な未来の一つは、かつて SF 作品の格好の題材であった「コンピュータによって支配される世界」に似ている。しかしそのときに実際に世界を支配するのは、コンピュータとネットワークの分野で商業的に最も成功した企業を動かす主たる人たちということになるのだろう。この未来では、人々は情報技術的なことに関する面倒だと思うことは全て誰かに任せてしまい、ある面では楽ができるが、特に通信や表現、言論活動などの部分で、自由と平等の原則を毀損することを受け入れることになるかもしれない。
 だがそれとは反対の未来を選び取れることを、テッド・ネルソンやリチャード・ストールマンといった電子時代の思想家たちは示唆する。彼らの提唱による XanaduGNU Hurd は未完の大作だが、より実際的ないくつもの計画に刺激を与え、前者はワールド・ワイド・ウェブや Wiki システム等、後者は GNU/Linux をはじめいくつかの有力なオペレーションシステムの成立や改良に大きな影響を及ぼしてきた。これらは理想が現実を変えていくということの実例をまざまざと示し、今この時代にあって理想を描くことに現実主義的な重要さがあるということを強力に証拠立てている。
 だから、どのようにしてソフトウェアを選び、どんなフォーマットに文書を記録すべきなのか、私は考えることができる。

 人一人一人は、巨視的には人がたくさんいる中の一人に過ぎない。それはいま人がたくさんいる中の一人ということであり、過去や未来に人がたくさんいる中の一人ということでもある。私の手足を動かすことは他の誰にもできないが、私が手足を動かすときには、その意志はいろいろなかたちで縁のあった人たちからの影響を含んでいる。それには良いものも悪いものもあった。またその人たちには同時代の人もいれば、生きている時期が全く重ならない人もいる。

 今となっては想像しにくいことだが、かつて日本語の書き言葉はもっと不便なものだった。書き言葉というものは言語があればどこにでも自然にできるというものではなく、各々の時代に生きた人たちの営為によって作られ、練られ、変えられてきた。いま私たちが使っている普通の文体は、明治時代の文人たちによってその原型が作られた。また近代社会に必要な重要な語彙もこの時期の努力によって成った。それからしばらくは美文主義的であったり、権力家が好む厳めしい文体と併存する時期が続いた。昭和の戦争時代が終わると、平和的な気分と相性の良い大衆文化とともに、この文体が一般化した。
 今ある程度成長した人なら誰でも、電子メールやウェブサービスを通じて、日常の些末な出来事や、それに伴う感興や愚痴をすぐに書き起こして、誰かに伝えることができる。しかもそれが誰が読んでも意味や情感を読みとれる品質を持っている。これを誰もが当たり前のようにもう思っている。しかし実に驚くべきことなのだ。文章の歴史を顧みれば、呟くように書くということは簡単なことではなかった。例えば明治5年頃に Twitter があったとしても、日本社会にはこれに対応する言語能力はなかった。
 コンピュータとネットワークの時代に対応する重要なソフトウェアの初期の実装を、正岡子規や夏目漱石が行ったとも言える。こう考えてくると時間の長さというものはおもしろい。まるで漱石が近所のどこかに今も生活しているかのようにも感じられるし、自分のすることが百年後に命を得ることもあるかもしれないと思える。だから今このように動いている状況の中で、何をすべきかということである。

 私には他の誰の手足を動かす力もないけれど、誰か手足を動かそうとする意志を持つときに、そこにできれば良い影響を与えたいと思って、こう書いている。

おわりに

 この文章はこのあたりで一区切りとする。最後に、こんなわけのわからない主催者の呼びかけにも関わらず、集まってくださった方々に、お礼を申し上げます。また、準備不足でありましたこと、力不足でありましたこと、その他何かと、何だかごめんなさい。おれ、次の機会があったらもっと上手にやるんだ…。
 おつきあいいただいて有り難うございました。