多くの要素を簡潔な形にまとめた参考図書。人物、組織、キャンペーンの背景と、裁判事例、目標、達成されたことが含まれている。多くの行動が集中しているアメリカ合衆国とヨーロッパに重点が置かれているが、世界の他の地域に関する項目も多く掲載されている。フェミニズム運動については、序論で要約され、年表で時代があとづけられている。さらに詳しい情報資料を、大量の文献目録の形で提供した。
ロレンスが明かす女性の自立の根幹とは?「D.H.ロレンスと自然」という、一貫したロレンス文学研究のテーマの一環に、「女であること」を据えて、ロレンス小説における女性の自立を説き明かした力作、ここに登場。
女性たちの間には「フェミニズム」への「あき」ともいえる感覚が広まっている。どんなことでもそれが繰り返されると「あきてしまう」。たとえ「問題」が何も解決していなくとも、「問題」の出し方に対して「あき」てしまうのである。本書はこんな感覚を前提として書かれた。自分の中にもあるそんな感覚に付合いながらも「何か変だ。そんなに簡単に結論を出してしまってよいのか」という自問を繰り返すことで書かれた。
「父」を楽しませてやりなさいな。でも、彼の法に服従してはだめ。フェミニズム=「娘のテクスト」は「精神分析の聖典/正典/性典」=「父のテクスト」の内部に入り込み、解体し、未知なる生命を得る。交錯するテクスト間に渦まく欲望を味わい尽くし、精神分析とフェミニズム双方に新たな視座を拓くフェミニズム批評の到達点。
大量生産・大量消費の社会のままでエコロジカルな未来を実現できるのだろうか?アルネ・ネス、ゲアリー・スナイダー他によるディープ・エコロジーの基本的テーマを扱った12章。
「ゆとり教育」や個性尊重教育など文部行政への批判、戦後教育法制の問題点の剔抉、行き過ぎた人権教育や同和教育などによる偏向教育の告発など、多岐にわたる、著者の第二評論集。
本書は、ヴィクトリア期から第一次大戦前夜にかけて、イギリスの中流階級女性が自らの法的・社会的・経済的・政治的地位の改善を求めて展開したフェミニズム運動の全体像を描き出す。
本書は、哲学、倫理学、美学、宗教民俗学、歴史学の各分野で活躍する著者たちによる刺激的なジェンダー批評の実践である。
セクハラの何が問題なのか?混迷するセクハラ論議に指針を与え、セクハラや性暴力、ポルノ・売買春など性をめぐる現象にひそむジェンダー力学を解剖する。法や経済、文化とセクシュアリティとが織りなす権力構造をあぶりだし、「セクハラNO!」を武器に挑戦するフェミニズムの実践書。フェミニズムの理論的成果を一人ひとりのより自由で可能性豊かな生き方につなげる。理論のためのフェミニズムから女性のエンパワーメントのツールとしてのフェミニズムへ。
セクシュアリティ、ポリティックス、フォークロア、ナラティブ、コメディなどのコンセプトを軸にロレンスのテクストを多角的に読みとく。あわせて、1990年以降のロレンスに関する国内外の著作(177点)を一挙紹介。
グローバルな視点で綴る体験的辛口批評。
体育教師、スポーツ研究者や学生たち、そしてスポーツをしている女性たちに向けて、スポーツとジェンダーをめぐる言説を読み解く入門書。
各時代の特徴と女性の暮らし、トピックスを収めて時代背景を浮き彫りにし、伝記的手法を通して、主要人物45人の女性の権利に目覚める過程と活動を描く。
環境社会学と社会運動論との接点を意識しつつ、環境運動が環境問題をめぐる社会紛争・問題解決過程、制度・政策の形成において果たしてきた社会的役割を明らかにする。さらに環境運動を主導する理念・価値、運動が直面する既存の制度や政治の壁など、日本における環境運動の展開過程を規定する諸条件を考察する。
フェミニズムはリベラリズムの継承者か、それとも批判者か。錯綜した関係を、集団と個人、性の商品化、自己決定権などから解く。
「科学の客観性」の意味が問い直される現在、「過去の科学」が規定した「女性の本質」がいまなお信じられている。一方、科学/技術に女性がいかに貢献し、何ゆえ貢献を妨げられたのかは、闇に葬られてきた。その知られざる歴史と日本の女子教育の考察を通して、科学/技術と人間が良い発展をとげるためには何が必要か、を明らかにする。
母を崩さない小説を探した少年は、けれども妻を崩さなければならなかった。母と妻に拘泥し続けた批評家、江藤淳が妻を殴打したのは何故なのか。「仮構の私」「仮構の日本」を求めてやまなかった批評家の困難さに寄り添うべく書かれた最も新しい江藤淳論。