ポストフェミニズム化する日本を斬る!対話と論争の覚醒へ。ナンシー・フレイザーの批判を真摯に受けとめ、英米のポストフェミニズム論を読み解き、日本の「ネオリベラル・ジェンダー秩序」を、理論的かつ具体的に批判する。
戦後東北・岩手におけるフェミニズムの思想と活動の内実を明らかにするとともに、それらを日本女性運動史・フェミニズム思想史のなかに位置づける。岩手においてフェミニズム的視点から活動してきた麗ら舎読書会会員たちへのインタビューと、麗ら舎読書会に会員として参加するなかで行ってきた参与観察、そして会員たち自身が記した詩や生活記録の分析から、岩手のフェミニズムのありように迫る。
権力はいかに言説のかたちをとって身体・精神・欲望を形成するのか。女と男の弁別が身体の自然に根ざすとする本質論的前提を根底的にくつがえし、セクシュアリティ研究の方向を決定づけたフェミニズム/クィア理論の最重要書。
キリスト教は女性をどのように眼差してきたのか。ミートゥー運動に象徴される、現代の「男女同権」を目指すフェミニズムとは異なり、ヨーロッパにはカトリックを起源とする「もう一つのフェミニズム」の水脈があった。聖母マリア、マグダラのマリアに始まり、中世修道院の女性たち、異端として処刑されたジャンヌ・ダルク、国と宗教を超え崇敬される現代の聖女マザー・テレサまで、キリスト教における女性への差別と崇敬の歴史を明らかにする。
女は政治秩序を脅かすので公的世界から排除すべきだ。容易に変わらないこの家父長的な思い込みに異議を唱え、デモクラシーとシティズンシップを根底から問い直す。
フェミニズムの最前線から女たちの世紀を振り返る。前衛的モダニズム作家ヴァージニア・ウルフは女性運動の先駆者でもあった。フェミニズムが様々な変遷を経てきた今日、私たちはウルフからどれだけ遠くに来たのか。ポストフェミニズム/第三波フェミニズム、新自由主義、ケア労働、ワーク・ライフ・バランス、シングルマザー、貧困といった最前線のテーマから、これまでのフェミニズムとその文学・文化を再検討。
なぜ私たちは“活躍”できないのか?家族論でも、女性向け啓発本でも描かれてこなかった、グローバル化・貧困化する日本社会の“フツー”の女性たちの現実、言葉にしにくい想い、日常生活でのとまどいをフェミニズムの視点から考察する。
社会構築主義のインパクト、多様性の承認。バックラッシュと新自由主義、「女性の貧困化」。社会理論がその方向性を見定めがたく彷徨する間に、ひとびとの身体・生命はグローバルな取引の激流に投げ出された。フェミニズムは近代リベラリズムの何を乗り越えるのか。ジェンダーの壁を越えた承認と再分配の理論構築へ、丹念に積み重ねられた論考を紹介。
本書は、哲学、倫理学、美学、宗教民俗学、歴史学の各分野で活躍する著者たちによる刺激的なジェンダー批評の実践である。
フェミニズムはリベラリズムの継承者か、それとも批判者か。錯綜した関係を、集団と個人、性の商品化、自己決定権などから解く。
1920年に女性参政権を獲得した後、アメリカの「フェミニズム運動」は、どのように展開されたのかー全米女性参政権協会(NAWSA)、全国女性党(NWP)、全国女性有権者同盟(NLWV)の組織の一次資料をもとに、1910年代の女性参政権運動、1920年代半ばにかけてNWP内における平等憲法修正条項(ERA)を作成するまでの過程とNLWVの母性保護を基軸とした社会福祉法制定過程に焦点を当て、「第一波フェミニズム」の思想と実践の成果は、「第二波フェミニズム」にどのように継承されたのか、NYのラディカル・フェミニズムの組織をとおして考察する。
この世には二つの尺度がある。男の尺度と女の尺度である。私たちは、男の尺度=客観の前提を打破し、新しいフェミニスト英文学史を創造しなければならない。
他者との非暴力的な関係が政治のはじまりだ。ケアの倫理から政治的主体を根底的に覆し、傷つき依存する関係から社会を構想する、フェミニズム理論の到達点。
若い女、中年の女、母親、主婦…孤立させられた女たちが声をあげたリブ。制度や意識の変化を経ても、性愛から老いまで、いまだ「名前のない問題」と向き合い生き抜く思想は終わらない。「女であること」と格闘し掴み取られて来たひとつひとつの価値を、手渡す/受け取るというセカンドステージへ。