不意に愛は目覚める。自失するほどの恋慕と陶酔、逡巡と傷心、悔恨と失意……しかし、それらすべては恩寵として輝き続ける!初恋からエロスまで、多彩な内容を象徴的手法で謳いあげた熱い詩集である。
両親が離婚した本当の理由を知った香苗は、家庭を崩壊させた男への報復を決意する。果たしてその男は、三年前に敵対調査で香苗の家族を標的にした総合探偵社イーグルサーチの探偵なのか。それとも…。
瞳は中学三年に進級した。担任は今春転任してきた吉村正道。音楽の教師だった。始業式早々、瞳は吉村に目をつけられたらしい。面と向かって「おまえは要注意人物だ」と言い、難癖をつけてきた。瞳は吉村に不信感を持つが、その不満げな態度を見た吉村はますます怒りをつのらせる。やがて吉村の瞳いびりはクラス中に知れ渡るほどになった。「こんなことで負けたくない」瞳の戦いが始まった。
デリダの写真論『視線の権利』(1985年ミニュイ刊)は、多くの、とりわけ最近の彼の著者がそうであるように、まず翻訳の問題として呈示されている。それは、翻訳ということの可能性、あるいは不可能性と戯れているようである。語の真の意味でのゲームが、翻訳という場、この本の用語を借りれば、チェッカーボードの盤上で、展開され、賭けられ、演じられる、そのなふうに、デリダは彼のフレーズ、構文、対話を編成してゆく。
見ることの歴史を溯り、劇場と視線の官能的関係をさぐる。文字が視線のセノグラフィーを追求する。演劇観のコペルニクス的転換。
なぜか心をかき乱し、苛立たせる美貌の教師・雅人。泰成は取り澄ました彼を疎ましく思いつつも目が離せない…。そんな時、劣等感を刺激される兄と雅人が一緒の所を目撃してしまい、訳もわからず激情にかられる。気持ちを自覚する前に、情動のまま雅人に噛みつくようなくちづけをし、欲望を発露するのだった!「あんたはたいした淫乱だ」傷つける言葉で罵りながらも執着し、躰を求め、曝く泰成。言葉もなく抱き合う、教え子と教師の禁断愛…。-後は、堕ちるだけだ。
久美子は玉の輿に乗った。高校を卒業して島根から上京した久美子は、勤務先の猪沢証券の青年社長・猪沢慎一郎に見染められて結婚した。何の不足があっただろう。大きな邸宅と、お手伝い二人にかしずかれる毎日。そしてやさしい夫。だが一つだけ久美子に馴染まないものがあった。夫は倒錯した性でしか久美子を愛せなかったのだ。夜毎の異様な営みは、久美子の心を蝕んでいった。長篇ハード・サスペンス。
本書のタイトル「はるかなる視線」とは、世阿弥の“離見の見”に触発されたタイトルである。文化人類学とは、観察者のネイティブな文化とは異なった文化の研究であるが、同時に、みずからの文化への反省である。著者にとっては、カルテジアン文化の深化の試みでもあるのだ。そして著者は、多様な題材をとおしてそれを提示してみせる。『神話論理』以後の新しい視座と可能性を示した本書は、たえず前進しつづける著者の学問への態度によって、われわれに新鮮な感銘をあたえる。
不意に愛は目覚める。大きすぎる愛に“襲われた”時、君なら、あなたならどうする!?自失するほどの恋慕と陶酔、逡巡と傷心、悔根と失意…しかし、それらすべては恩寵として輝きつづける。
ヴァルター・ベンヤミンは、「歴史の収集家」であった。商品・博覧会、写真、鉄骨建築など、「近代」という歴史の断片を拾い集めながら、技術と大衆の“進歩”と“繁栄”に彩られた近代という「悪夢」からの「覚醒」を試み、時代に対して厳格な「否」の態度を崩さなかった。ベンヤミン論に先導的な役割を果たし続ける著者により、十九世紀の“根源の歴史”を見据えたベンヤミン像が立ち上る。
『マツモトキヨシ』のしっかりエミちゃん、久光製薬『眼涼』、日立のCFでおなじみ緒沢凛1st水着写真集。
河口龍夫氏は、常に日本の現代美術において先駆的役割を果たしてきた作家で、物質が喚起する様々な諸相を『関係』という視点から浮かび上がらせます。作品の背後を貫く哲学的思考により生み出される作品の在り方は、その透徹した論理性と視覚化された作品の独自性においてほとんど他に類を見ない。本書は、未発表の作品である「関係ー教育・エドゥカティオ」連作を基本に据え、河口氏の70年代から80年代、さらにいわきのための新作により構成されています。
「私は、何者にもなりたくなかった」-私は、長い間ずっと探し続けていた。それは、私がこの世に生まれてきた意味であり、私が今、こうして生き続けている価値であり、それが未だに私には、皆目見当がつかないのだ。