(承前)魏の廃帝の正始五年(241)、幽州刺史の毌丘倹は、高句麗が度々叛くので、諸軍の歩騎一万人を統べて玄菟郡を出、諸道からこれを討った。高句麗王の位宮は歩騎二万を率いて沸流水のほとりに軍を進めた。梁口で大いに交戦し、位宮の軍は破られて退いた。高句麗の地は大山深谷が多いので、馬を束ね、車を中途に置き、丸都山に登って、その麓に在る国都を襲い、千という虜を獲、あるいは首を斬った。位宮は単騎で妻子を連れて逃げ隠れ、倹は軍を引いて還った。

 正始六年(242)、毌丘倹が再び征討の軍を興すと、位宮は沃沮へ逃げた。倹は玄菟太守の王頎を遣わしてこれを追った。沃祖の邑落はみな破られ、三千あまりの虜を獲、あるいは首を斬った。位宮は北沃祖へ逃げた。追って沃沮を過ぎ、挹婁の地に至り、東は大海に臨んだ。その土地の人に「この海の東にも、まだ人が有るのか」と問うと、長老は「日の出る所の近くに、顔つきの違う人が住んでいる」と説いた。

 同じ年、楽浪太守の劉茂・帯方太守の弓遵は、嶺東の濊が高句麗に従ったため、師を興してこれを伐ち、不耐侯らは邑を挙げて降った。また、天子は、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、帯方郡に預けて授けさせることとした。


 この頃、幽州従事の呉林は、楽浪郡が本来は韓の国々との交渉を管轄していたとの理由で、辰韓の八国を帯方郡から楽浪郡へ移管しようとした。しかし連絡に間違いが有って紛争になり、韓は帯方郡の崎離営を攻めた。弓遵と劉茂は兵を興してこれを伐った。遵が戦死するほどの争いになり、ようやくのことで収拾した。

 正始八年(247)、不耐濊侯が朝貢したので、天子は詔して不耐濊王に号を進めた。この年、王頎が帯方太守に転任した。倭王の卑弥呼は、狗奴王の卑弥弓呼との間に争いが起きたので、載斯烏越らを帯方郡へ遣わして、互いに攻め撃つ状況を知らせた。頎は塞曹掾史の張政らを遣わし、詔書・黄幢を難升米に授け、檄を作ってこれに告諭した。

 その後、倭王の卑弥呼が死に、直径百歩あまりの冢を作った。更えて男の王を立てたが、国中が承服せず、たがいに誅殺しあい、千人あまりが死んだ。そこで卑弥呼の宗女の台与を立てて王とし、ようやく治まった。張政らは檄を以て台与に告諭した。台与は、大夫・率善中郎将の掖邪狗ら二十人を遣わして、政らが還るのを送り、よって洛陽に至り、男女の生口三十人、白珠五千・孔青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を献上した。

 魏の元帝の景元(260~264)の末、粛慎国(挹婁)が遼東郡に入貢し、その国の弓、長さ三尺五寸を三十張、楛矢長さ一尺八寸、石弩三百枚、皮・骨・鉄を雑えた鎧二十領、貂の皮四百枚を献じた。この頃、倭王の遣使も度々至った。

 晋の武帝の泰始(265~274)の初め、倭王が遣使して入貢した。太康元年(280)、辰韓王が遣使して土地の物を献じた。二年(281)、辰韓王がまた朝貢した。元年から二年、馬韓の渠帥が頻りに遣使して土地の物を貢した。

 この年、中書令・散騎常侍の張華は、武帝の信任を得ていたが、政敵の荀勖の策略によって、地方に左遷された。都督幽州諸軍事に就いた張華は、却って大いに治績を挙げ、馬韓・新弥諸国の、山に依り海を帯び、州を去ること四千里あまり、歴世いまだ至ったことのない二十国ほどが、使いを遣わして朝献した。

 六年(285)、鮮卑の慕容廆が夫余を襲い、夫余王の依慮は自殺し、その子弟は沃沮へ逃げた。七年(286)、夫余後王の依羅が、護東夷校尉の何龕に救援を請うた。龕は督郵の賈沈を遣わしてこれを助け、夫余国を回復させた。この年、辰韓王がまた朝貢した。七年・八年(287)・十年(289)、馬韓の渠帥がまた頻りに入貢した。

 この頃、陳寿が『三国志』を著した。その東夷伝の序文には、次の様に記されている。

 尚書は「東は海に浸り、西は流砂を被るまで」と称える。その内なる国々については、聞いて語ることができるのだ。しかし辺境の外は、訳を重ねて至り、華人の足が及ぶ所ではなく、未だその国々の文物や地形を知る者は無かったのである。
 舜から周の頃までには、西戎から白環の献上が有り、東夷から粛慎の貢納が有ったが、みな世を隔てて至り、その遙か遠いことはこの通り。
 漢になり、張騫を西域へ遣わし、黄河の源を窮め、諸国を経歴し、ついに都護を置いてこれを総領した。その後に西域の事が細かく知られ、それで史官は詳しく載せることができたのである。
 魏が興り、西域から全て来るほどではないとはいえ、その主要な国々からは、朝貢を奉じない歳は無く、ほぼ漢代の故事の通り。しかし公孫氏は、父子三世に亘って遼東を占有して、天子はそこを絶域とし、海外の事としてすておき、ついに東夷とは隔断された。
 景初中、大いに軍を興し、公孫淵を誅殺し、別に船軍を浮かべ、楽浪・帯方の郡を収めた。かくして海表は静やかとなり、東夷とも修好した。
 その後にも高句麗が叛くと、また軍を分けて討ち、極遠を窮追し、烏丸・骨都を越え、沃祖を過ぎ、粛慎の庭を踏み、東は大海に臨んだ。長老が説くに、日の出る所の近くに、異面の人が有ると。
 ついに諸国を周く観て、その法俗・大小の区別・各々が持つ名号を採収し、詳しく記すことができた。夷狄の邦といっても、しかし俎豆の形を留めている。中国が礼を失うとき、四夷にこれを求めるということも、なお信じられよう。だからその国々を撰述し、その同意を列挙して、前史の備わらない所に接ぐのである。

(了)