横綱朝青龍が故障を理由に夏巡業を休むとしながら、7月末にモンゴルに帰国した際、モンゴル政府の依頼でチャリティーイベントのサッカーに出場していたことが問題にされ、日本相撲協会は8月1日に二場所出場停止、減俸、謹慎という処分を下した。

この件については、最初は仮病疑惑が持ち出された。私もテレビ番組でその場面を少し観た。しかし、腰の故障の状態はよく知らないが、少なくとも「故障していない」ようには見えなかった。腰は使っていないし、よく鍛えた格闘家としてはこのくらいの動きはできるだろうと思う。これは、仮病説の材料になるような映像ではない。伊勢ノ海理事も「診断書は正当」と述べているので、仮病の疑いはないだろう。むしろ、横綱というのはこのくらい鍛えているということではないだろうか。

では、モンゴル出身の横綱が、けがのために巡業を休み、モンゴルに帰国し、モンゴル政府に頼まれて慈善事業のサッカーに出るということが、これほどの処分を受けるようなことなのだろうか。高砂親方は「現地で頼まれてサッカーをした、と聞いている。しかし、ボールがけれるくらいなら、巡業に参加するよう(25日に)本人に伝えた」と話したそうだ。他方では巡業は本場所に次ぐ重要なものだとも云うのだが、高砂親方は巡業はチャリティーのサッカーのようなものだと考えているのだろうか? 帰国したこと自体が親方にも無断であったということを重く見たとしても、これが妥当な処分だとどうして言えるのだろうか?

相撲は本来神事である、だから朝青龍のように荒々しいのは良くないという意見を聞いた。しかし、神事というのは本来荒々しいものだった。それを、社会が近代化するのに従い、段々その荒々しさを削ぎ落としてきた。「礼に始まり礼に終わる」とか、「柔よく剛を制す」など、「強さ」の中に「美しさ」や「潔さ」を求める、日本古来の武道の「美学」を朝青龍の相撲や振る舞いに見ることはできない、などと言う人がいる。とんでもない勘違いだ。柔道だって元々は戦場で人の首を斬るために発達したものを徐々に「きれい」にして、今のような形になったのはごく最近のことだ。西洋ではレスリングだって歴史は古いのだが、近代レスリングの形になったのはほんの百年くらい前のことである。大相撲だってかつてのような荒々しさを隠そうとしてきたのではないか。日本人はむしろ朝青龍にナマの相撲、ナマの日本を見ている。ここには重要な問題があると私は思う。

大相撲では、かつて力道山が「純粋な日本人でなければ横綱になれない」と言われて相撲をやめたという話もある(事実は未詳)。割合新しいところでは、小錦の昇進に絡んで人種差別が取りざたされたことがあった。私は、今回の朝青龍への処分に対しても、今の大相撲には差別的な構造があるのではないかという疑いが湧くことを禁じ得ない。もうこんなことがなければいいのにと思っていたところだったのだが。