新しいサイトを作ったこともあり、今までより積極的に発言でもしてみようかなんて思っている今日この頃。斉藤正美さんのジェンダーとメディア・ブログに『ブログ名に「ジェンダー」がつくことの悩み』という記事が載っていました。

わたしは1997年頃から(もしかしたら96年だったか)「ジェンダーとメディア」というウエッブサイトを運営し、フェミニズムの主張を発信してきた。…

しかし、それからほぼ10年の現在は「ジェンダー」をめぐる状況が当時とは一変している。…

というわけで、「ジェンダーとメディア」というブログ名称を変えようかどうしようかと悩む日々である。…

これに対して Josef さんや makiko さんが運動や学問などの方面から意見を交わされる中、私は以前ほんのちょっとだけ国語学をかじった知識が浮かんできたので、その方向から考えたことを発言してみました。ていうか私は何一つきちんと学問したことはなく、いろんな文献を渉猟しているだけなので、(0゚・∀・)ドキドキテカテカしてしまいますが。

Kodakana 『「ジェンダー」で検索しても質の低い記事が相当混じる(あるいは、混じるという印象を持たれている)ということがあるのではないでしょうか。ジェンダーという言葉が知られるようになった割に、その指し示す概念はよく知られていないと感じます。日本語の語彙の網の中で「ジェンダー」が漂っています。ジェンダーを巡る日本語での、身のある議論・説明や表現がどれだけ行われたでしょう? いくら正確でも角度を変えず似たような言い方を繰り返していたら広く伝わっていかないってことだと思います。ジェンダーを捉える語彙が豊富でないのです。』

斉藤さんから以下のような反応を頂きました。

discour 『Kodakanaさん、どうもありがとう。

ジェンダーという言葉が知られるようになった割に、その指し示す概念はよく知られていない

いくら正確でも角度を変えず似たような言い方を繰り返していたら広く伝わっていかないってことだ

確かにそうですね。「ジェンダー」で検索すると上位にあがっているのは大学の研究所か学会関係が多い。そこには「ジェンダー」とはという定義が繰り返されるか、イベントの案内が書かれるだけだしねー。 「ジェンダー」を名乗ってきた一人としておっしゃることを重ーく受けとめました、です。どうしたらいいのでしょう。何ができるのだろう。』

discour 『追記です。

ジェンダーを巡る日本語での、身のある議論・説明や表現がどれだけ行われたでしょう? 

これは、上であがっている「フェミニズムのプレゼンス能力」問題が絡んでいるんではないでしょうか。

「フェミニズム系ブログやサイトがまだまだ少ないこと、あったとしてもインタラクティブとはほど遠く、更新もままらない状態のサイトも多いこと、ブログがあっても、情報の提示がうまくなく、読者が少なかったり、広い層の読者にとって有用な情報になっておらず、内輪向けの情報になっていることなどの問題が挙がった。」

という・・』

斉藤さんの発言中、フェミニズム系ブログや…などの問題が挙がった。という部分は、山口智美さんの『マスコミ学会ワークショップレポートと感想:ふぇみにすとの雑感@シカゴ』からの引用です。

さて、ここでは私の考えてみたことをもそっと詳しく、それからコンピュータネットワーク使って何ができるかという可能性について述べようと思います。文体が煩瑣になると書きにくいため言い切ってしまうことが多いので、「もし私の考えが確かなら」と前置きしておきます。



青の波長が何ヘルツであるというのは青を説明する語彙です。白は青ではない、紫は白ではなく青に近い、赤は白ではなく青とも違うが紫には近い、といったことは青を捕捉する語彙です。このように語は網を作っています。色に関する語彙が豊富になるほど各語の意味は明確になる、あるいは、より明確な意味を持って伝わるようになります。ある語を捕捉する語彙が豊富になるほど、その語を多角的に捉えられるようになります。様々な人々がそれぞれの立場でそれを受け止められるようになります。

新語ができたり、外来語がやってくるときには、語彙の網の中に陣地を確保しなくてはなりません。かつて、「演説」という語が成立することで「演歌」という語が導き出されました。漫才、漫談、漫画などは、連想を促すことで互いを支え合っています。「ラジオ」のように明確な具体とともに輸入される語は割と簡単に居場所を見つけます。「メール」は従来「手紙」の置き換えとして気取った使い方をされる語でしたが、インターネットが普及すると、紙の信書は「手紙」、電子的なものは「メール」と簡潔な言い分けのための語彙として定着しました。

一方、外来語がうまく網の中に収まらず、曖昧なまま人口に膾炙することがあります。他の語によって捕捉されにくいため、曲解されたり、便利に恣意的な使い方をされたりします。「ジェンダー」はそんな語の一つになりました。「ジェンダー」は日本語の語彙の網の中で漂っています。余談ながら、ガクシャは説明が、サッカは創作を飾るための解釈が、シンブンは用語の意味を切り詰めるのが得意です。

ここで、もし「ジェンダー」という音訳語が、まだある一定の役割を果たしうる、また、濫用や誤用には歯止めをかけるべきであると考えるならば、「ジェンダー」の浮遊を制限する必要があります。曰く、ジェンダーは何ではないのか、ジェンダーは何と違うのか、ジェンダーは何と似ているのか。それらを明らかにする、明らかなものとして見せるためには、「ジェンダー」の周りを巡って囲む多くの語彙が必要です。より多くの人々からそのための語がなんであるのかを聞き出すことができたらと思います。

では、そのためにインターネットを使って何かできることがあるでしょうか。もちろん今日インターネット上に公開されていないということは、存在がいくらか削られるようなものです。どんな手法があるでしょうか。

静的なウェブページは双方向性に欠けます。完結した文書の保管には向いています。メーリングリストは議論に適していますが、参加の敷居が高い、内容が公開されないことも多く、広がりが出にくいです。掲示板は誰でも並列に参加できます。しかし、まとまりにくく、終わりがないという性質を持っています。甘い期待を持っていると、荒らしやスパムロボットに打ちのめされます。集合知と言うより集合無知になってしまう場合も多いです。

ブログはどうでしょう。閲覧とコメントは誰でもできます。開放的です。ブログ検索やトラックバックで繋がる方法も整えられています。ブログには多くの可能性があります。ただし、現状はその可能性に枷が嵌められています。多くのブログホスティングサービスでは、一つのユーザアカウントと一つのブログが強く結びつけられています。一つのブログに記事を投稿できるのは一つのユーザアカウントだけであり、一人のユーザアカウントで持てるのは一つのブログだけです。ユーザアカウントが削除されるとブログも消えてしまいます。

このため、ブログは個人色が強くなりがちです。シンブンが「ブログ」に「日記風サイト」と説明を付けるのは意味を切り詰めすぎですが、現状のある面に対しては正確でもあります。コメントをつける場合もお宅におじゃまするという感覚が障壁になることがあります。トラックバックで議論に応じる場合も、記事がウェブ上に分散してしまうため、議論が広がるほど後から追って読みにくく、全体像をつかみにくくなります。また、組織・団体にとってはブログは個人用なので使えないという印象を与えているかも知れませんし、実際よくあるブログホスティングサービスは複数の執筆者がいる場合使いにくいものだと思います。

アカウントをブログから解放すべきです。ブログをアカウントから解放すべきです。そのブログの管理者さえ承認すれば複数のユーザアカウントから一つのブログに投稿できたらどういうことが起こるでしょうか。一つのユーザアカウントで目的別に作った複数のブログに投稿できたらどうなるでしょうか。想像してみてください。ブログは日記に留まるものではなく、ウェブページの他の形態との間にはまだ可能性の原野があります。想像してください。カミクズヒロイは Web 2.01 くらいを目指しています。