写真:中標津神社の参道に登る階段のたもと。向かって右側から撮影。

 中標津神社は北海道標津郡中標津町にある。中標津市街地南部はゆるやかな丘陵の北側の斜面にあり、その南東部の一角にある曲輪のような高台にこの神社は建っている。境内はお祭りとなればちょっとした演歌ショーが十分にできる程度の広さで、狛犬、鳥居、手水、社務所に拝殿などが典型的にそろっている。

 この神社の参道に上がる階段の登り口から向かって左へ少し離れたところに、中標津町教育委員会による「中標津神社チャシ跡」という標記の看板が立っている。チャシとは何であるかということは、この看板の内容に詳しい。
看板右欄「チャシとは…/ もともと「チャシ」という言葉は「柵」「柵囲」を意味するアイヌ語です。その多くには「壕」と呼ばれる堀をめぐらせた跡があり、 16〜18世紀頃に造られました。一般的にはアイヌの人々の「砦」や「城」などと呼ばれていますが、その他にも聖域、見張り場所、狩猟や漁労に関する祭場、チャランケ(談判)などの場所としての機能があると言われているため、地域や立地、造られた時期などによって、その性格は変わってくるものと思われます。/ なお、中標津町内にはこのチャシを含めて6ケ所のチャシが見つかっています。」左図は確認された周壕の痕跡を示す。
 要するに近世アイヌの遺跡であって、この遺跡の上に、日本文化の象徴であるかのような神社が建っていることになる。
 またこの階段の向かって右側には「鎮守中標津神社」と記された碑があり、この碑の側面には「元北海道庁長官 佐上信一 謹書」と銘が刻まれている。

 この神社の創設は1913年、現在地には1919年に移設された(参考:『中標津神社 - 北海道神社庁』)。この辺りに和人が定着しはじめたのもその頃だ。私の曾祖母が福島県から北海道に渡ってきたのもこの時期をそう下らない。今では、辺りを見回しても、一体どこがどうチャシ跡なのかもうよく分からなくなっている。和人が定住を始める前、この辺りがどんな様子だったのか私は聞かされたことがない。

 私はこの社名碑と史跡標の並びに、腹の底を炙られるような痛烈さを感じるのである。

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  • 北海道は世界史的な用語で言えば殖民地である
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  • 私はまさにこの神社のように生きている

写真:中標津神社の参道に登る階段のたもと。向かって右側から撮影。

 この神社だけがたまたまアイヌの活動の跡に建っているのではなく、これが日本がアイヌに対してしてきたことなのだ。伝統的日本とは五畿七道‐‐外ヶ浜から鬼界ヶ島まで‐‐の範囲だとすれば、そこから遠ざかったこの地に神社があるというのは本来驚くべきことであるはずだ。
 この神社の近くには高校があって、午後のひとときには下校する学生たちが通って行く。年に一度の例大祭には、近隣の地域からも人が集まって賑わう。この神社前の風景を多くの人が見ている。でも誰かこれについて語った人がいるだろうか。

 日本の街には神社があって当たり前だという思い込みがある。「北方四島は日本固有の領土である」という標語がこれを補強する。あの辺境の島々でさえ「固有の領土」なのだから、北海道本島は日本と思って間違いないのである。そしてこうした意識は、時々権力家の口を突いて出る「日本は単一民族国家である」とか、「アイヌは既に同化されている」などという発言と深刻に結び付いているように思える。
 日本史の特殊な用語もこうした傾向を助ける。北海道は世界史的な用語で言えば殖民地であるに違いない。しかし日本史ではそうは言わない。そして「固有の領土」論の第一の論拠である日ロ間最初の国境画定を含む条約は、両国の政権がアイヌの存在を無視して結んだものであるという見方は、今の日本が昔から日本であったかのような「日本史」という捉え方からは出てきにくい。日ロ間の数回にわたる国境変更の交渉が、アイヌが自由に行き来していた空間を分断し、彼らをいかに翻弄したか、忘れられがちということになる。

 私はまさにこの神社のように生きている。北海道に生まれ育った和人が故郷を愛するということは、アイヌから過去、現在、未来を奪うことと通じている。しかしまた人というものは、突き合わせれば衝突を起こすような事実どもを知っていたとしても、頭の中に壁を作ってそれらを隔離しておけば、何の煩悶もなく日々を暮らし死んでいくことができる。私はなぜここにいるのか、これから何をするべきなのか。ここには言わなければならないことがある。