(承前公孫淵が叛くと、明帝は太尉の司馬懿を召喚して事を諮った。
「じいよ、淵などはじいの相手には不足だが、必ず勝ちたいのだ。どんな計略が考えられるであろう」
「城を棄てて予め逃げるのが上計、遼水によって大軍を阻むのが次計、坐して襄平城を守るなら、擒になるだけでござる」
「淵は、どう出るであろうか」
「もし、明主賢将ならば、彼我を深く量り、戦う前に負けを認めることもでき申す。されどこれは淵の及ぶ所ではござらん。今度の戦は遠征で、まあ持久戦はよくないというもの、必ずまずは遼水で阻み、その後に城を守るでござろう。これは中の下でござる」
「往還には幾日かかるかな」
「往くに百日、還るに百日、攻めるに百日、六十日を休息にあて、一年で足り申す」


 景初二年(238)春、司馬懿は牛金胡遵らと歩騎四万を率いて洛陽を発った。明帝は車駕で西明門に出て見送り、詔して懿の弟のと長子のに温県を過ぎるまで送らせた。孤竹を経て、碣石を越え、遼水に至った。幽州刺史の毌丘倹が合流した。公孫淵は将軍の卑衍楊祚らと歩騎数万を遣わして遼隧に駐め、二十里あまりの塹壕を掘らせていた。六月、懿の軍が至ると、衍が迎え撃ったが、懿は遵らを遣わしてこれを撃ち破った。懿は軍に令して敵の土塁を崩すと、兵を引いて東南に向かうと見せ、急に東北へ進み、襄平を目指した。衍らは襄平の守りが無いのを恐れて、夜の内に陣を棄てて城へ帰った。懿の軍が首山へ至ると、淵は再び衍らを遣わして決死の戦いをさせたが、大いに破られた。懿はついに襄平城下へ進軍し、砦を築いた。

 おりしも雨が三十日あまりも降り続き、遼水が溢れ、兵站の船が河口から城下へ直通した。空が晴れると、土を起こして山とし、櫓を整え、城中へ石を何発も射ち込んだ。公孫淵は困窮した。食糧は尽き、人は互いに食い、死者を増やした。楊祚らが投降した。八月七日の夜、長さ数十丈の大流星が、首山の東北から飛んで襄平城の東南へ墜ちた。その後、淵はようやく使いを遣って、降伏して縄に就くことを乞うた。司馬懿は許さず、使者をみな斬った。淵は日を決めて質を送ることを重ねて申し入れたが、懿は聴かず、返して曰く、
「兵法には五つの大要が有る。勝てるときは戦い、戦えねば守り、守れずば逃げる。あとの二つは降参と死が有るだけじゃ。お主は早くに降参せんかったのじゃから、死ね。質を送るには及ばぬ」
 二十三日、淵の衆は潰乱し、子のと数百騎を率いて包囲を破り東南へ逃げた。懿の大軍がこれを急撃し、流星が墜ちた処で公孫父子を斬った。城は破られ、相国以下の千という首を斬り、淵の首は洛陽に送られた。同じ頃、明帝は別に劉昕鮮于嗣を遣わし、海を越えて楽浪・帯方二郡を収め、遼東・玄菟と合わせ公孫氏の勢力は悉く平定された。この戦役では、高句麗王の位宮が魏に味方して数千人の援軍を派遣した。

 魏の景初三年(239)六月、倭王の卑弥呼が、大夫の難升米らを帯方郡に遣わし、天子に朝献することを申し入れたので、太守の劉夏が部下を遣わして洛陽まで送り届けた。その年の十二月、詔書して倭王に報いて曰く、

 親魏倭王卑弥呼に制詔する。
 帯方太守劉夏は、使いを遣わして、汝の大夫難升米と次使都市牛利が、汝が献じる所の男の生口四人・女の生口六人・班布二匹二丈を奉じるのを送り、ここに到った。
 汝の在る所は遙かに遠いにもかかわらず、使いを遣わして貢献したのは、汝の忠孝であり、我は甚だ汝を哀しむ。
 今、汝を親魏倭王とし、金印紫綬を与え、送封して帯方太守に預け、汝に授けさせる。それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。
 汝が来使の難升米・牛利は遠くから渉り、道路に勤労した。今、難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉とし、銀印青綬を与え、引見労賜して遣り還す。
 今、絳綈交龍錦五匹・絳綈縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献じる所の値に答える。
 又、特に汝に紺綈句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚、真珠・鉛丹各五十斤を賜い、みな送封して難升米・牛利に預け、還り到れば録受させる。
 悉く以て汝が国中の人に示し、皇帝が汝を哀しむことを知らしめるべく、故に鄭重に汝の好物を賜うのである。

 魏の正始元年(240)、帯方太守の弓遵が、建中校尉の梯儁らを遣わし、詔書・印綬と種々の賜物を奉じて倭国に届けた。倭王は使者を通して上表し、恩詔に答謝した。三年(242)、高句麗王の位宮が西安平を侵した。四年(243)、倭王が再び大夫の伊声耆掖邪狗ら八人を遣わし、倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹木・※[犭に付、音はフ]・短弓矢を献じた。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を与えられた。

 倭国の旧語を聞くと、自らを太伯の後裔と謂い、又、上古から使者が中国に行っていたと云う。(続く