9-27 チャット会より(1);冒頭〜FOSS についてより続く。

 25年ほどに及ぶフリーソフトウェア運動は、直接的な成果物であるフリーなコンピュータプログラム群だけでなく、様々な副産物を積み上げてきた。それは一つには様々な人々が地理的隔絶を超えてオンラインで共同作業するための環境、語彙、手本、ノウハウであり、また別の面ではクリエイティブ・コモンズに影響し、あるいは学術分野におけるオープンアクセス運動を惹起した(参考:FOSSコミュニティによく似た、学術分野における「オープンアクセス運動」オープンアクセスとオープンソースを融合させたPublic Knowledge Project)。
 インターネットを利用して運動を発展させた例として様々な面から見るべきところがあるだろう。単に参考にするという程度にとどまらず、分野によってはもっと直接的な協力関係を築いた方が双方にとって利益になるというところもある。しかしそうした試みはまだあまりうまくいっていないようだ。双方に改善すべき面があるということは分かっている(参考:オープンソースソフトウェアが活動家たちに注目されない理由 - SourceForge.JP MagazineFOSSのサポータは消費者運動家となるべきなのか? - SourceForge.JP MagazineFOSSコミュニティーと身体障害者ユーザとの相互理解の必要性 - SourceForge.JP Magazine

 ところで、いまこうして記事を書くためにチャットのログを見返してみて思うのは、「話がかみ合っていないなあ…」ということだ。もちろんその時にもちょっとかみ合い方が悪いとは思ったが、それにしてもかみ合っていなかったという気がする。


 例えば私が倫理観の話を持ち出したのは、FOSS といってもただプログラムを書いているだけでなく、領域の広がり方は他のある種の運動と重なる部分もある、というだけことを言うつもりだったのだが、運動体の間の対立の話になったり、FOSS と他の運動体の違いをいちいち挙げるような方向に話が流れたのは無念。

00:07 Kodakana: FOSSの中にも多様な価値観はありますよ。
00:08 emi: でも対立する相手を潰す必要はないでしょう?
00:08 emi: 中絶反対と中絶賛成の運動が、技術をシェアしてそれぞれ勝手にやりましょう、というのは考えられない。
00:09 yamtom: うん、なるべく技術はシェアしたくない、という方向にいくね

 ここでもなんでそんな話が出てくるんだろうと思っていた。運動を推し進めるためにオープンであった方がいいかどうかはその運動に参加している人たちがよく考えるべきことだとは思うが、対立するものはすればいいし、協力した方が利益になると思ったらその時に協力できるかどうかはまた別の問題だろう。ここではそんなことを言おうとしてるんじゃないんだし、だいたい中絶反対派のことまで心配してやる義理も情けもないんだしよ。

00:10 chiki: 先生!ある程度完結性を持つコードをめぐる問いと、対立それ自体が前景化しがちな諸運動とを、「倫理的共通性」(だから応用可能性をさぐるという発想)なるものだけでつなぐのは結構無理があるのと、オフラインで事足りるなら、無理してウェブのコミュニケーション力に頼らなくてもいいんじゃね?という問いが頭の中に!

 誰が先生なのかよく分からないが、ただ切り口として倫理観を持ち出しただけなのに、それが全部みたいに言われて俺涙目。
 何だかこのあたりコッチは主催者として今回の方向性を出そうとしてるんだが、どんどん違う…、部分的には合ってるんだけど、ここで言おうとしたことはちょっと違うんだよ。

00:25 Kodakana: でも若年層だって、ちょっとケータイの操作ができる、ウェブサービスは使えるっていう程度のは多いかもしれないけども、世代交代は決め手にならないんじゃないかな。
00:25 chiki: 何の決め手?

 状況を改善する話をしてるのに、その返しはどういう意味なんだ? とこの時はちょっと考えてしまったわけだが…、答えになるか分からないが、ちょっと昔の話をしよう。

 祖父がいた。二人いた祖父のうち、長く生きた方の祖父だ。若いときは豆腐屋、その後は町の金物店を三十数年間経営していた人である。祖父は癌を患って余命あと一年あるかというときに、死期が近いことを知りながらパソコンを買った。5年くらい前のことで、新聞広告の通信販売で Pentium II の載ったノート PC が三万円ほどというのはとうじとしてもやや高く買わされたと思うが、ともかくも手をつけた。
 ある時祖父が文字入力について訊ねてきた。かな入力をしようとしていたのだが、私はローマ字入力派なので、ローマ字入力の方が覚えなければいけないキーの数が少ないこと、従って手の動きも小さくてすみ楽であるということを教えると、祖父は話を理解し、すぐに頭を切り換えてローマ字入力を覚えた。
 同じ頃にすでに一年以上パソコンを使っていた50代の父などは、未だに「~(チルダ)はどうやって入力するのか」なんてことをいちいち訊いてくるような有様だった。「そういう世代じゃないから」みたいなことも父は言っていた。そのうちに祖父の方は年賀状を作るために数十人分の住所録を打ち込んでいた。インターネットにも興味を持っていた。父がわけのわからないことをうだうだ言って ADSL を契約するのを渋っていたので残念なことになったが…。年末には私が祖父に代わってその住所録から宛名を刷り、昨年以前に祖父が手書きした年賀状をもとに文面も作った。こういうわけで、普通なら年賀は差し控えるところを敢えて送り出したのである。

 要するに、「トシだから」なんてのはろくな理由じゃないと私は思っている。そんなのは何を断るのにも使えるし、いちいち真に受けていたら話にならない。「トシだから簡単にできるようにしてくれ」と言われてもそうそう都合がつくわけじゃない。逆に若くても悪い覚え方をしてそれでガチガチに頭を固めてしまうタコもいる。結局、新しいことを始めて、どれだけ覚える気になるかというのは、その人の経験、性格や、その時の環境、状況によるところが大きいのだろう。何がそこを分けるのか、ということについては、万人に効く「コレ一つ」というものは無いんだろう。だからこそ一人一人にできることがあるということだと思うよ。

 次回に続くよ。