戦後東北・岩手におけるフェミニズムの思想と活動の内実を明らかにするとともに、それらを日本女性運動史・フェミニズム思想史のなかに位置づける。岩手においてフェミニズム的視点から活動してきた麗ら舎読書会会員たちへのインタビューと、麗ら舎読書会に会員として参加するなかで行ってきた参与観察、そして会員たち自身が記した詩や生活記録の分析から、岩手のフェミニズムのありように迫る。
わたしたちの消費は「正しい」のだろうか
金銭と時間の投資、心身の過剰な労働、性的消費との葛藤…、わたしたちと「推している」対象のあいだにはさまざまな問題が浮かびあがってくる。しかし、その活動に喜びが見出されることは間違いない。喜びと苦しさとが入り混じるその実践をすくい取りながら、「推し活」社会の現在地を描きだす。「推し活」論の決定版!
エンターテインメントをめぐるモヤモヤを考えるための補助線となる書。
男はいつでも抑圧者で女はいつでも犠牲者?母性は女の本能でポルノは男だけのもの?男性虐待/少女の蛮行/男性の美容整形/女性用ポルノ…多様化する男女関係やセクシュアリティの現実を見ようとしないフェミニズムに明日はあるか。真の男女共生・男女平等への道は何か。
いまや政治家も、学者も、官僚も、マスコミも、こぞってフェミニズムに媚びている。しかし本書の著者は、フェミニストの主張が屁理屈にすぎず、実際には多くの女性を苦境に陥れているという実態を明らかにする。
本書は、「政治」をどのように考えるかという問題を、政治学の知見を踏まえて真剣に扱うことにより、「政治」をめぐるフェミニズムの理論的考察に新しい知見を提示する。公/私の境界線、国家・社会・家族の関係、「男性のケア」などへの注目を通して、政治学の中心問題に「フェミニズム」をすえるとともに、「女性問題」ではないジェンダー平等を展望する。
ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』と、田中美津の「とり乱し」を架橋する、理論と実践の両面からの試み。
フェミニズムの歴史とは、「私たちとは誰なのか」を批判的に問うてきた歴史でもある。フェミニストとして語るあなたとは誰なのか。その語りはどんな場所からなされているのか。その語りからは誰が排除されているのか。「私たちが共にあること」はいかにして可能なのか。フェミニズムはもちろん一枚岩ではない。それでも、私にとってのフェミニズムとは、自己の、そして他者の〈トラブル〉に直面しながらその声に応答しようとしてきたフェミニズムである。
現代の女性が直面する日常生活の疑問や課題をフェミニストの視点から掘り下げる、現代版フェミニズム案内書。恋愛や仕事、テクノロジーやメディアの性差別など、幅広いテーマを取り上げ、ベル・フックスからボーヴォワールまで、さまざまなフェミニストの考えを解説。時代とともに変化するフェミニズムの姿を通じて、自分の立場と考え方を見つめなおすための一助となる一冊。
他者との非暴力的な関係が政治のはじまりだ。ケアの倫理から政治的主体を根底的に覆し、傷つき依存する関係から社会を構想する、フェミニズム理論の到達点。
性の商品化、ミス・コンなど4つのテーマを選び、論争の活性化を促す。議論を尽し、思いを尽してフェミニズムを作る。
フェミニズムとしての女性史研究は、性差を構築し内面化させる「近代」そのものを問い直す実践である。それは「近代」というストーリーを補強する制度的な知としての「歴史学」への鋭い問いでもある。その視座と方法をめぐる提起と議論、実践としての地域女性史研究、聞き書き、近代がもたらした排除と分断のプロセスの分析を紹介。問いかける側のリアリティをも揺るがしつつ紡がれた成果である。
フェミニズムとは性差別にもとづく搾取や抑圧の構造を問い、その変革を目指す思想のはずである。だが、いわゆる「第一世界」のフェミニズムは、「帝国」による植民地支配に起源する植民地主義を見落としたまま主張されてきた。植民地主義と性差別という複合的な抑圧のもとにある朝鮮女性たちが、真の人間性を求めて辿った苦闘の軌跡を描きながら、開かれたフェミニズムの可能性を問う。
これは現代に待ち望まれた小説である。男と女の問題が、かつてないスケールで考察されている。真摯に愛を探究するすべての人のためにこの物語は書かれた悪夢と幻想の女性優位社会。
同一性や平等の原理を超える〈差異〉の新しい地平をめざし,女性運動の現場とフェミニズムの現在を架橋する。
南紀産浜高級リゾートホテル。夜ごとのディナーとお酒落な会話。サロン的零囲気に包まれた完全二重密室で連続殺人事件が!犯人は誰?
20世紀最大の冒険と言われるフェミニズム思想をより豊かにするための挑戦の書。