性的マイノリティやフェミニズムというテーマについて、近年かつてないほど急速に社会的な関心が高まりつつある。その一方で、ポスト構造主義フェミニズムの台頭によって、社会的な性別であるジェンダーのみならず、生物学的な事実としてのセックスもまた社会的構築物でしかないという見方が出現している。本書はこれらの見解を批判的に考察し、その問題点を明らかにすることよって、セックス/ジェンダーの概念的枠組みを刷新することを目指す。
序 章 はじめに
第1章 「セックスもまたジェンダーである」のか?
ーポスト構造主義フェミニズムにおけるジェンダー概念再考に向けて
1 はじめに
2 J・W・スコットによるジェンダーの再定義
3 L・ニコルソンによる「生物学的基礎づけ主義」批判
4 ポスト構造主義フェミニズムにおけるジェンダー概念の再評価
第2章「セックス」はフィクションか?
ーJ・バトラーとフランス唯物論フェミニズム
1 はじめに
2 「観念」としてのセックス
3 バトラーによるウィティッグ読解の問題
4 身体的差異の有徴化ーギヨマンの議論
5 バトラーとギヨマンの比較
6 おわりに
第3章 性別二元論批判を問いなおす
ー性別二元論批判は何を見落としてきたのか
1 はじめに
2 Kessler & McKennaによる性別二元論批判
3 性別二元論批判の骨子
4 セックスの連続性とジェンダーの二元性を対置することの陥穽
5 セックスという分類は恣意的か?
6 性別二元論批判が見落としてきたもの
7 性別二元論の何が問題なのか
8 おわりに
第4章 「社会的につくられた性差」とは何の謂いか
ーセックス/ジェンダーの区分を擁護する
1 はじめに
2 性差と性役割
3 性差をめぐる似非科学主義
4 「知」としてのジェンダー
5 「生物学的ではない性差」
6 社会通念が生み出す現実5
7 おわりに
第5章 バトラーはボーヴォワールをいかに誤読したか
ー「規範としてのジェンダー」と「自由としてのジェンダー」
1 はじめに
2 バトラーによるボーヴォワール解釈
3 「なる」と「つくられる」
4 女性の「生成」をめぐって
5 ジェンダーからの自由/ジェンダーへの自由
6 規範としてのジェンダー/自由としてのジェンダー
7 ジェンダーというタームにおける語義の反転
8 おわりに
第6章 「ジェンダーの複数化」か、「ジェンダーのない社会」か
ーJ・バトラーとフランス唯物論フェミニズム
1 はじめに
2 文化による解釈/個人による解釈
3 バトラーにおける二種類の規範
4 「つねにすでに」の帰結
5 ウィティッグをあえて誤読するバトラー
6 性別二元論が問題なのか
7 デルフィとバトラー
8 おわりに
終 章 ジェンダー/セクシュアリティ研究の枠組みを再構築する
初出一覧
あとがき
参考文献
索引(人名/事項)
近代アジアで「歴史から隠されて」きた女性解放運動に光をあてる待望の書。スリランカ人女性歴史家の手になる渾身の一作。
子育てや介護の経験をとおして見えてきた言葉にしにくい思い。
フェミニズムの立場から、社会の矛盾や日常生活でのとまどいを平易に語る。
1 不安定労働の時代を生きる
はずれた「家族の未来図」
「在宅ワーク」は「仕事と家庭の両立」か?
ヘゲモニーは親密圏でつくられる
2 成り立たない「ライフコース」
「家族戦略」としての同居/別居
「マミー・トラック」から「初職トラック」へ
「お嫁さん願望」の功罪
3 地域社会と女性保守層
私的扶養というモラル・マゾヒズム
「留守番」の政治学
「小泉純一郎好きおばちゃん」はミーハーなだけなのか
4 融解する境界線
子どもの「連れ去り」と「置き去り」の国際化
父親の育児参加とホームレス
拡散するセックスと感情労働
5 震災は親密圏を変えたのか
ゆらぐ大地、ゆらぐ親密圏
「プライベートを他者に知られること」をめぐる雑感
生の公共性
戦後東北・岩手におけるフェミニズムの思想と活動の内実を明らかにするとともに、それらを日本女性運動史・フェミニズム思想史のなかに位置づける。岩手においてフェミニズム的視点から活動してきた麗ら舎読書会会員たちへのインタビューと、麗ら舎読書会に会員として参加するなかで行ってきた参与観察、そして会員たち自身が記した詩や生活記録の分析から、岩手のフェミニズムのありように迫る。
・人種・階級・ジェンダーが複雑に絡みあう差別とは?
・いまやバズワードとなった「インターセクショナリティ」を、フェミニズムの観点から捉えなおす。
・原点であるキンバリー・クレンショーの記念碑的論文(1989年)から、現在にいたる最重要論文7本を精選した必読アンソロジー。
キンバリー・クレンショーは、1989年に黒人差別と性差別が重なる抑圧を「インターセクショナリティ」という概念で可視化した。以来、この分析概念は、人種・階級・ジェンダーが交差する複合的な差別の実相を考察するために、女性学や社会学、政治学などの分野でさまざまに応用されてきた。
本書は、フェミニズムの視点から「インターセクショナリティ」を捉えなおし、原点であるクレンショーの記念碑的論文から現在にいたるまでの学術的軌跡を7本の最重要論文によってたどる。
現代社会の不平等、差別をフェミニズムから再考するための必読アンソロジー。
はじめに 千田有紀
第1部 基礎編
第1章 人種と性の交差点を脱周縁化するーー反差別の法理、フェミニスト理論、反人種差別政治へのブラックフェミニスト批評(キンバリー・クレンショー/山根純佳 監訳・土屋匠平 訳)
第2章 インターセクショナリティにおける定義上のジレンマ(パトリシア・ヒル・コリンズ/佐藤文香 監訳・孟令斉 訳)
第3章 インターセクショナリティの複雑性(レスリー・マッコール/千田有紀 監訳・中林基子 訳)
第2部 発展編
第4章 「バズワード」としてのインターセクショナリティーーフェミニスト理論の成功をめぐる科学社会学の視点(キャシー・デイヴィス/千田有紀 訳)
第5章 フェミニスト原典主義ーーインターセクショナリティと読解の政治(ジェニファー・C・ナッシュ/佐藤文香 監訳・永山理穂 訳)
第6章 フェミニスト理論におけるインターセクショナルな転回ーー共通言語の夢?(マリア・カービン&サラ・エーデンハイム/佐藤文香 訳)
第7章 インターセクショナリティの形而上学再考(ホリー・ローフォード=スミス&ケイト・フェラン/千田有紀 監訳・児玉谷レミ 訳)
解説 佐藤文香
索引
ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』と、田中美津の「とり乱し」を架橋する、理論と実践の両面からの試み。
フェミニズムの歴史とは、「私たちとは誰なのか」を批判的に問うてきた歴史でもある。フェミニストとして語るあなたとは誰なのか。その語りはどんな場所からなされているのか。その語りからは誰が排除されているのか。「私たちが共にあること」はいかにして可能なのか。フェミニズムはもちろん一枚岩ではない。それでも、私にとってのフェミニズムとは、自己の、そして他者の〈トラブル〉に直面しながらその声に応答しようとしてきたフェミニズムである。
男はいつでも抑圧者で女はいつでも犠牲者?母性は女の本能でポルノは男だけのもの?男性虐待/少女の蛮行/男性の美容整形/女性用ポルノ…多様化する男女関係やセクシュアリティの現実を見ようとしないフェミニズムに明日はあるか。真の男女共生・男女平等への道は何か。
本書は、「政治」をどのように考えるかという問題を、政治学の知見を踏まえて真剣に扱うことにより、「政治」をめぐるフェミニズムの理論的考察に新しい知見を提示する。公/私の境界線、国家・社会・家族の関係、「男性のケア」などへの注目を通して、政治学の中心問題に「フェミニズム」をすえるとともに、「女性問題」ではないジェンダー平等を展望する。
いまや政治家も、学者も、官僚も、マスコミも、こぞってフェミニズムに媚びている。しかし本書の著者は、フェミニストの主張が屁理屈にすぎず、実際には多くの女性を苦境に陥れているという実態を明らかにする。
現代の女性が直面する日常生活の疑問や課題をフェミニストの視点から掘り下げる、現代版フェミニズム案内書。恋愛や仕事、テクノロジーやメディアの性差別など、幅広いテーマを取り上げ、ベル・フックスからボーヴォワールまで、さまざまなフェミニストの考えを解説。時代とともに変化するフェミニズムの姿を通じて、自分の立場と考え方を見つめなおすための一助となる一冊。
近代国家は「自律した個」を理想像とし、子育てや介護などケアする者を政治的に二流の存在とみなしてきた。男を公的領域、女を私的領域に振り分けるその力学を、フェミニズムは公私二元論として鋭く批判してきた。そして、公的領域で“男並み”になることがゴールではないことも指摘した。フェミニズムはその先どこへいくのか。
本書は母・家族・ケアという概念と格闘してきたフェミニズム理論の立場から、プラトンからロールズまで政治思想を貫く公私二元論を徹底的に検討する。そこで明らかになるのは、自律的主体が隠蔽するもの、すなわち、ひとは傷つき依存して生きるという事実だ。依存する存在は自律的主体の下位概念ではない。それこそが「人間の条件」であり、政治学の基礎単位なのだ。
「ヴァルネラブルな存在が世界の代表である」(H・アーレント)。国家暴力に傷つけられながら抵抗し、ケアにおいて他者との非暴力的な関係を実践してきた女の経験こそが、新たな政治の領野を切り拓く。女であることの絶えざる葛藤を理論に鍛え上げ、非暴力の社会を構想する、フェミニズム理論の到達点。
性の商品化、ミス・コンなど4つのテーマを選び、論争の活性化を促す。議論を尽し、思いを尽してフェミニズムを作る。
フェミニズムとしての女性史研究は、性差を構築し内面化させる「近代」そのものを問い直す実践である。それは「近代」というストーリーを補強する制度的な知としての「歴史学」への鋭い問いでもある。その視座と方法をめぐる提起と議論、実践としての地域女性史研究、聞き書き、近代がもたらした排除と分断のプロセスの分析を紹介。問いかける側のリアリティをも揺るがしつつ紡がれた成果である。
フェミニズムとは性差別にもとづく搾取や抑圧の構造を問い、その変革を目指す思想のはずである。だが、いわゆる「第一世界」のフェミニズムは、「帝国」による植民地支配に起源する植民地主義を見落としたまま主張されてきた。植民地主義と性差別という複合的な抑圧のもとにある朝鮮女性たちが、真の人間性を求めて辿った苦闘の軌跡を描きながら、開かれたフェミニズムの可能性を問う。
これは現代に待ち望まれた小説である。男と女の問題が、かつてないスケールで考察されている。真摯に愛を探究するすべての人のためにこの物語は書かれた悪夢と幻想の女性優位社会。