過去から未来へ、いわき地方の生活記録史。
貧困問題の解決に鋭く切り込む世界的名著。ピューリッツァー賞など13の賞を受賞。TIME誌「2010年代ノンフィクションベスト10」選出。
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1875年製スタインウェイによる19世紀ロシアの夜想曲
19世紀ロシア 夜想曲集 第1集
バルト・ファン・オールト
第1集となるこのアルバムには、グリンカ、ハルトクノフ、アントン・ルビンシテイン、チャイコフスキー、スクリャービン、アンチーポフ、グラズノフ、カリンニコフら19世紀ロシア帝国で書かれた16曲の夜想曲が収録されています。演奏はピリオド様式に精通したバルト・ファン・オールトによるもので、スタインウェイ創業社長時代のエレガントな1875年製の楽器を修復使用して19世紀後半のピアノの音を追及しています。
ピアノによる夜想曲の創始者はダブリン生まれのジョン・フィールドであることは有名ですが、フィールドが事実上ロシアの音楽家だったことは意外と知られていません。フィールドの54年の生涯のうち、アイルランド拠点期は幼少時代の10年、イギリス拠点期は修業時代の10年で、ロシア拠点期は34年に及んでおり、1837年に亡くなったのもモスクワです。要するにプロの音楽家になってからはずっとロシア拠点で働いていたことになり、有力な弟子もミハイル・グリンカら何人もいたことから、ロシアの作曲家のあいだで夜想曲が浸透し、ロシアは夜想曲の発祥の地ともなっていたのです。
そしてそのフィールドの名声は死後も続き、トルストイの小説「幼年時代」[1852]、「戦争と平和」[1869]にもフィールドの名が登場するほどでした。
上の画像、上段左から、グリンカ、アントン・ルビンシテイン、チャイコフスキー、スクリャービン、下段左から、アンチーポフ、グラズノフ、カリンニコフ、そして曲は収録されていませんが、ジョン・フィールドです。
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作品情報◆ ミハイル・グリンカ[1804-1857]
ロシア人による最古の夜想曲は、フィールドに師事したグリンカの作品。ヘ短調「別れ」(トラック1)は1839年に妹のために書いた無言歌風の作品。1828年に書かれた変ホ長調(トラック2)は、ピアノまたはハープのための作品。
◆ カルル・ハルトクノフ[1796-1834]
ロシア帝国領のリガに誕生。バルト・ドイツ人のハルトクノフ(ドイツ語ではハルトクノッホ)は、1816年にライプツィヒでコンサート・ピアニストとしてデビューした後、シュトゥットガルトでフンメルに師事し、1819年に師についてワイマールに移動。1824年にロシアに戻り、まずサンクトペテルブルク、次いでモスクワで音楽教師として働いています。37歳で早世していますが、2つのピアノ協奏曲と3つの夜想曲を含む多くのピアノ曲を遺しています。
◆ アントン・ルビンシテイン[1829-1894]
作曲家、ピアニスト、著名人であったアントン・ルービンシュタイン(1829-1894)は、ロシア音楽史上の重要人物。11曲の夜想曲を作曲し、そのうちの2曲はピアノ連弾曲。ここでは20代の作品1曲と30代の作品2曲を収録。
◆ ピョートル・チャイコフスキー[1840-1893]
30代前半に書いた2つの夜想曲はロシア音楽の傑作。チャイコフスキーの夜想曲は、グリンカの夜想曲第2番の影響を受けており、また、フィールドの技法を取り入れてもいました。
◆ アレクサンドル・スクリャービン[1872-1915]
生前、ピアノのヴィルトゥオーゾとして有名で、自作曲を公演で演奏することで知られていたスクリャービンは、幼少期に手本としたショパンと同様、作品の大半をピアノのために作曲。2つの夜想曲 Op.5はショパンの影響を感じさせる作品。
◆ コンスタンチン・アンチーポフ[1859-1927]
1886年、サンクトペテルブルク音楽院でリムスキー・コルサコフの作曲クラスを卒業。交響的アレグロ、ピアノ曲(2つの夜想曲を含む)、ロマンスなどを作曲。リムスキー=コルサコフ、ボロディン、リャードフ、グラズノフらと共にベリャーエフ・サークルの一員でした。
◆ アレクサンドル・グラズノフ[1865-1936]
サンクトペテルブルク音楽院に30年近く勤務し、そのうち20年以上を院長として過ごしたグラズノフの夜想曲は、若い頃に書いた作品。◆ ヴァシーリー・カリンニコフ[1866-1901]
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