一九九〇年頃までのフェミニズムは、学習と組織化と浸透の段階にあった。九〇年代はフェミニズムが政権の中心を占め、上からの意識革命を進めた時期である。二十一世紀に入ると、フェミニズムを甘く見たり油断していた男性や保守層が事態の深刻さに目覚め、反撃を開始した。一つの教義体系となっているフェミニズムと戦うためには、その方法論的・理論的間違いを論破しなければならない。本書にはフェミニズムのどこが間違っているかが、理論的・方法論的に整理され、正しい理論が提示されている。
二〇世紀初頭のアメリカで、「フェミニズムの足音」が聞こえると謳い、女性が男性に従属することのない新しい社会の到来を予感した稀有な社会主義者、金子喜一と、ラディカルなフェミニスト、ジョセフィン・コンガー。「人間の平等」という同じ理想をめざす社会主義の影響を受けながらも、フェミニズムが独自の深まりを見せていく過程を、二人の生涯を通じて描く。
本書は、西洋近代美術の歴史が記述・記録されるなかで強力に働いている規範に含まれる偏りを明らかにする論争の書であり、フェミニストによる文化研究の理論的提起として、すでに一種の古典の位置を獲得している。…本書の価値は、議論の緻密さと、変革を展望する著者のはっきりと闘う姿勢にある。
市場労働と家事労働の社会的・経済的関係を家父長制的資本主義論によって解明し、マルクス主義フェミニズムの全体像を提示する。
結婚退職を強要されるOLたち、働く女の、男とともにする子育て、嫁姑の確執、セクハラ裁判、子どもへの性教育、映画のなかのフェミニズム、シングルズ宣言。儒教的オトコ社会にもの申す韓国の女たち。
内なる声に動かされて女性たちはいかに格闘し、自らの表現手段を獲得したか。本書は主に、18世紀から19世紀にかけてのやや古い時代に、ドイツの女性たちの書き著したものについての論を収めた。
西欧/男性のエキゾチズムの視線から離れた場で、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの女の言葉は、何を生み出しているだろうか。本書は、詩的想像力あふれる言葉や映像コラージュの引用を織り込みつつ、「物語る」ことにまつわる複数の知と、文化をめぐる問いとを交差させ、その隙間に息づいているものを見つめる試みである。ポストコロニアルの文化を深く問い直しつづけるベトナム出身の映像作家/音楽家/人類学者による、記念すべき最初の著作。
【1993年刊行本をオンデマンドにて復刊】ひとりの人間としてやりたいことをやろうとするときに、おこる夫、社会との軋轢─。それをのりこえ、気持ちのいい関係や生活がもてるようになるには。生き方の選択肢が多ければ多いほど、女も男も自由に「自分らしく」生きられる。
1. 自分の世界をきり拓きはじめた女たち……日本から
2. 行動する、心やさしい女たち……アメリカから
3. 子連れで共同家庭をつくる女たち……日本から
4. 男社会に風穴をあける女たち……日本の学校からI
5. 異論をたいせつにする女たち……日本の学校からII
6. 性の神話を突きくずす女たち……シンガポールから
本書は、女性の自己実現にむけての価値あるメッセージである。
実存思想協会
実存思想論集 38号
2023年
●特集 フェミニズムと実存
趣意文(小島和男+森一郎)
バトラーからニュートンへ,あるいは引用の政治(藤高和輝)
もうすぐなくなるという哲学の女嫌いについて(横田祐美子)
フェミニズムと実存ーーボーヴォワール『第二の性』を読み直すために(小手川正二郎)
世界は我が家なのか?--フェミニスト現象学と実存論的分析論(高井ゆと里)
●応募論文
道元思想における捨身についてーー修行の相互相依的成立構造(長野邦彦)
ポイエシス的な「絶望」--西田幾多郎が哲学の動機とみなした「人生の悲哀」にせまるための一試論(森 レイ)
亡き人を思うことーーヤン・パトチカにおける「死後の生」の現象学(柳瀬大輝)
●書評
大山真樹著『時間・円環・救済ーーニーチェの道徳批判を導きの糸にした永遠回帰思想の解明』(梅田孝太)
古荘匡義著『綱島梁川の宗教哲学と実践』(出岡 宏)
秋富克哉著『原初から/への思索ーー西田幾多郎とハイデッガー』(戸島貴代志)
上田圭委子著『ハイデガーにおける存在と神の問題』(田中 敦)
丸山文隆著『ハイデッガーの超越論的な思索の研究ーー『存在と時間』から無の形而上学へ』(金成祐人)
檜垣立哉著『バロックの哲学ーー反ー理性の星座たち』(板橋勇仁)
後藤雄太著『存在肯定の倫理1--ニヒリズムからの問い』,『存在肯定の倫理2--生ける現実への還帰』(竹内綱史)
稲垣諭著『絶滅へようこそーー「終わり」からはじめる哲学入門』(戸谷洋志)
編集後記
実存思想協会活動報告
事務局報告
論文応募要領
実存思想協会規約
(カット 佐藤忠良)
女は政治秩序を脅かすので公的世界から排除すべきだ。容易に変わらないこの家父長的な思い込みに異議を唱え、デモクラシーとシティズンシップを根底から問い直す。
「『ふつう』って、いったい何なんだろう。」私はこれまでの人生で、何度この言葉をつぶやいてきたことでしょう。子どもの頃、スポーツが得意ではなく、部屋でテレビゲームをしたり、女の子とおしゃべりをしたり、交換日記を書いたりするのが好きでした。初めて恋をしたのは、同級生の男の子。文化系でインドア派だった私は、いわゆる「男子ノリ」にもなじめず、「男らしさ」とは縁遠い子どもでした。
そんな私に対して、周囲の大人やクラスメイトは「男の子ならふつうは〜」と何度も言いました。大人になってからも、「社会人の男性ならふつうは〜」といった言葉が、日常のあちこちから聞こえてきます。それが今でも正直、息苦しい。私にとって「ふつう」という言葉は、定食屋の「ご飯ふつう盛り」くらいで十分なのに……。そんな「ふつう」との距離感を持ち続けてきた私は、大学卒業後、社会や学校が押しつける「ふつう」に揺さぶりをかけたいと考え、小学校の教師になりました。それが、20年前のことです。
今では「多様性」や「ジェンダー」という言葉が広く知られるようになりました。もしかしたら、「もうジェンダー平等は達成されたのでは?」「女性や性的マイノリティへの差別はなくなったのでは?」と思う人もいるかもしれません。しかし、実際には日本のジェンダーギャップ指数は依然として低いままです。
学校という場でも、「異性愛が当たり前」とされたり、「女らしさ」「男らしさ」に従うことが当然のように求められたりする状況は、今なお続いています。だからこそ、本書を通して、あらためて「ふつうって、何なんだろう?」と問いかけたいのです。
子どもたちが、性別や環境に縛られず、自分らしく生きるにはどうすればいいのか。「ふつう」を押しつける社会のあり方を変え、ジェンダー平等を実現するために、どのような知識や視点が求められるのか。そして、教師として学校現場で何ができるのかーー。私はずっと、そうした問いを抱えながら、試行錯誤を繰り返してきました。本書では、私がこれまでの経験を通じて考えてきたことを、みなさんと共有したいと思います。(「はじめに」より)
■第1章 男らしさに苦しんだ子ども時代
■第2章 学問と出会い、世界の見え方が変わる
■第3章 教師になって気づいた学校の中の男性性
■第4章 私の教育実践ー「生と性の授業」
■第5章 「自分らしさの教育」から一歩先へ
現在、宗教とフェミニズムが交錯する場は複雑に入り組んでいる。この複雑な語りの交差するところにこそ、現代女性の自己再生への可能性がある。宗教は「家父長制の道具」なのか。抑圧された女性を救う力となるのか。
身体、そのリアリティから生起する今日の倫理を問う。