大学の「語用論」科目のテキストに最適の入門書。語用論の観点から注目すべき言語現象を、典型的な日本語の用例を用いて解説し、語用論の課題に対して、コミュニケーション理論の側からのアプローチを試みている。第1部で、コミュニケーションの諸理論を概説し、第2部で、配慮表現研究を具体的に展開しながら、全編を通して、発話の目的とは何かを解き明かしていく。
哲学の歴史に遡行不可能な衝撃を与えたコペルニクス的転回とは何か? 古代ギリシアにおける客観としての「自然」と「存在」、主観としての「私」、それらをリンクさせる世界観としての「秩序」という概念の発明と、超越論的転回から言語的転回、解釈学的転回を経て、コミュニケーション的転回へと至る変容を読み解く!
Introduction
Act 1 古代1
Intermedio 1 「モノ」という概念の有用性ーー古代ギリシャの叡智
Act 2 古代2
Intermedio 2 「私」の沈没ーー古代末期における「私」
Act 3 中世
Intermedio 3 神すなわち自然ーースピノザ体験
Act 4 近世
Intermedio 4 「超越論」という近現代哲学の主旋律
Act 5 近代
Intermedio 5 共同体と自由の解けない問題ーーコミュニタリアンとリバタリアン
Act 6 現代
Epilogue
本書では、日本の高校の英語授業で実際に起こったコミュニケーションから出発し、教師や生徒が使用する言語の「再帰性」という特徴に着目しながら、教室内で・教室外へ展開するメタ・コミュニケーション、および、その連鎖を辿る。「教室で英語を学ぶ」という社会・文化的実践の多層性、教室における英語の多機能性を明らかにし、「教室で英語を学ぶ」ことそれ自体をコミュニケーションとして捉え直すための枠組みを構築する。
序章
第1章 記号論的出来事としての「コミュニケーション」と言語使用のコンテクスト指標性:言語人類学の一般コミュニケーション論
第2章 「教育言語人類学」という視座
第3章 生徒は「ネイティヴ・スピーカー」にいかに出会ったか:教室における「邂逅」のポエティックス
第4章 IRE とその分身:生徒のメタ語用的言語使用から迫るもう一つの現実
第5章 「出来事」と「出来事」が入り組むところ:間ディスコース性、ジャンル、クロノトポス
第6章 「特定の「学び」を結果としてもたらす出来事の連続性」を見出すために
第7章 結論と展望:「コミュニケーション論」が切り拓く「英語教育」の可能性
参考文献
あとがき
索引
心理学において言語を研究対象にすることと言語を研究道具として用いるあいだには大きな溝がある。前者は、言語・認知心理学を中心に研究が行われているが、後者は余り検討されていないのが実情である。本書は、この言語や会話をデータとして利用する方法について、各分野での利用状況をふまえ、その全体をまとめ上げた初の成書である。内観報告法、プロトコル分析について詳しく解説した後、臨床研究を視野に入れた会話データの分析、手法としてのインタビュー等、関連分野の学生を念頭に丁寧に説明する。テキストとしてばかりでなく、研究者にとっても有用かつ示唆に富む興味深い書である。
第二言語習得や習得支援についての理論、それに基づく教育企画と教材を形にし、新たな日本語教育の実践を提唱。日本語そのものの指導に関心が強い現状を見直し、学習者の自己表現を通して、人とつながり交わることをめざした教育実践へ。
■「はじめに」より
現在の日本語教育の大勢は相変わらず広い意味での日本語そのものへの関心がひじょうに強いです。そして、入門から中級くらいまでの日本語教育に目を向けると、さまざまな教授活動が実施されてはいますが、結局のところは、文型・文法事項や語彙や漢字などの習得がねらいとされているようです。(後略)
日本語教育は過去40年で著しく拡大しましたが、相変わらず優れた成果が見込めない古いパラダイムにしがみついています。そして、そのようなパラダイムを乗り超えて、「このような教育を企画して、このような教材を制作して、このような教育を実践すれば、優れた教育成果を上げることができる」という新たな見通しを描いて共有することが今でもできていません。本書では、そうした古いパラダイムを乗り超えて新しい日本語教育実践を創造するための入門から中級までの構想とそれに関連して日本語の習得と習得支援の理論と原理について考えたいと思います。
多言語・多文化主義を唱えるまえに必要な検証作業、近代「日本語」の地下水脈を探る。「異なれるもの」の排除・包摂の力学。
風の唸り、川の水音、森のざわめき、詩語による交信。物質言語の響きを聴きとり、これを人間の初発のことばとして返すこと。谺の修辞法を学ぶこと。分析的言語では掬いとれずにきた世界の肌触りを私たちが奪還する方法とは?メキシコの火山高原からカリブ海の灼熱の汀へ、アフロ・ブラジルの黄昏から奄美群島の唄の魂まで、ことばと感覚の薄墨色の領域を求めてはるかな道行きを重ねてきた人類学者の、画期的な試論にして、時空を超えた「認識の自叙伝」。
遊ぶ/はたらくことで、現代人は一体なにをやっているのか?
「連字符(ハイフン)社会学」(マンハイム)と「理念型」、そして「言語ゲーム」「家族的類似」(ヴィトゲンシュタイン)など社会学/哲学の提供してきた視座から、《あそび》と《しごと》の多義性・連続性をあきらかにすることで、労働/遊戯/余暇の本質を立体的=可視的にうきぼりにする。
ことばと文化、自然と人間の営みに深い思索を重ねてきた著者が、世界の危機を見据えて語る“日本人の使命”とは。外国人が日本語を学ぶとなぜか礼儀正しくなる「タタミゼ効果」の不思議や、漢字に秘められた意外な力、持続可能社会だった江戸時代の豊かさ、そして日本人の世界観を西欧文明と対比させながら、小さくとも強靭な日本の感性を文明論として考える。
ほんとうに言葉による古代開発はできないのか。日本言語学が金科玉条としてきた「音韻対応」という考え方こそ、東西文化の比較を遮断する大岩ではなかったのか?マチャプチャリ山に惹かれた男がその大岩をどけてみた。とにかく、どけてみた…ら、出るワ出るワ出るワ。宝の泉が噴き出した!20年余、アイヌ語を見続けてきた著者がネパール語でみつけた驚愕の大事実!日本人とは、日本の国とは、何だったのか…。
わたしたちが会話をしているとき、そこではことばだけが交わされているのではない。どんなに些細な、他愛のないおしゃべりであっても、自分の体にさわったり、身ぶりをしたり、ごく短い間があったり、ときには何かを演じたり、身体まるごとつかったコミュニケーションが繰りひろげられている。ブッシュマンの家族、日本の大学生、民俗芸能という多様な会話の現場を、徹底的にミクロに観察することで、コミュニケーションとは何か、社会とは何かという大いなる問いに挑む。現象学、社会システム理論、言語行為論などを参照しながら、徹底的に「身体」に根ざして考える“唯身論”人類学の試み。
話せなかった子どもと家族の、希望。「子どもと話したい」と願う家族の希望を実現する行動分析学の言語指導。話せない子どもと家族に寄り添い共に歩みつづけた、障がい児言語指導の第一人者による実践ノート。
メラネシア・フィジーにおいて三十年ぶりに開催された最高首長の即位儀礼。そして、植民地期以来、土地(ヴァヌア)と社会集団の所有関係を規定してきた古文書。この二つの「詩的テクスト」の記号論的繋がりーーメタプラグマティクスーーを、儀礼スピーチや神話的語りの緻密な記述・分析を通して審らかにする言語人類学的エスノグラフィー。
言語を操る動物-ヒトの持つ最大の特徴はどこからきたのか?原始的なサルの発する警戒音やコミュニケーションを分析することで、ことばの進化の謎を探る。