フェミニズム・精神分析学・性役割理論・社会生物学など多岐にわたるジェンダー論の総括であると同時に、男女の不平等解消へむけて連帯の構築可能性をさぐる意欲的試み。
絵本に年齢制限も決まった読み方もない。心の「芽」をはぐくんでくれる絵本ガイド。
ジェンダー論に新しい命を吹き込む力作!マルクス主義の視点から基本的概念を整理し、ジェンダー・エクィティ(男女平等)への突破口を明示する。
本書では、社会的・文化的性差たるジェンダー視角を労働場面の分析に生かす方法を探求している。女性労働に関するケーススタディとして、いかにして、ジェンダー差を組み込んだ労働編成が構築されるのか、それがいかに正当化・内面化されるのか、いかなる要因によって、いったんできあがった編成が変容するのかを、事例に即して分析した。
女も男もしなやかに生きるために。家庭科教育のこれからを提案し、ジェンダーを固定する教育からジェンダーをなくすための教育へ。
女性の能力活用がエクセレント・カンパニーをつくる!日本の企業におけるケースを豊富に取り込んだ、競争優位確立に役立つジェンダー企業経営論。
2人が一つになって永遠の高みをめざすプラトン的愛のかたちは失われたのか。近代科学の勃興期、ベーコンは女性的自然をどうとらえたか。母との関係性は、男の子、女の子にそれぞれどのような性の意識をもたらすのか。現代科学の理論は、ほんとうに客観的に成立するのか。フェミニズム、科学、心理学など、さまざまなジャンルから、ジェンダーに色づけされた科学の本質を暴く挑発的論文集。
労働の中のジェンダーを理論的・体系的に学べる変革の書(竹中恵美子講義録)。解決の扉は自動扉ではありません。どうすれば改革できるのか、その展望を切り拓く形で話をすすめました。
「国家の物語」から「ディアスポラの物語」へ
資本主義の高度な発達によるグローバル化が加速した現代社会。猛烈に肥大化したハリウッド映画に代表された「映画理論」からも、グローバル化の陰で第三世界の国々に飛び火しつつある「ナショナリズムの論理」からも解放された、もうひとつの《空間》を作り出すことへの積極的な参画。本書の「映画読解行為」は新たな《闘いの場》を創造する。
(1)ナショナル・シネマとジェンダー(2)インディペンデント・トランスナショナル・シネマの可能性(3)植民地映画の系譜(4)フランス映画のアイデンティティ危機(5)植民地映画『望郷』分析(6)ベトナム革命映画の成立過程(7)南北分断のジェンダー化(8)革命映画とジェンダー(9)『インディア・ソング』アンヌ・マリー=ストレッテルの死(10)アイデンティティと政治性(11)白人植民ブルジョワ社会の終焉(12)声の導く時空間(13)『姓はヴェト、名はナム』政治的映画の製作(14)「ベトナム女性の声」の構築過程(15)国家とジェンダーの関係(16)声の中の「ホームランド」(17)ナショナル・シネマにおける国家/国民とジェンダー(18)新しい女性表象の創造。図版資料多数収載。
オリエンタリズム、ピクチャレスク、崇高美を縦糸に、階級、人種、ジェンダーを横糸に、女性の言説/表象が織り紡ぐ美学的光景が、トルコ、西インド諸島、ピクチャレスク庭園、革命期のパリ、北欧、スコットランドを舞台に、“近代-美学”を形成する政治的、社会的論理を浮き彫りにする。
未来に向けて「働くこと」を語る。ジェンダーの視点から歴史的に。
男女が別々に競技する現代スポーツに対して、「男女別競技を撤廃しよう」「男女の身体能力差を考慮すべきだ」などの多様な意見がある。現在の男女別競技は、どのように「常識」になっていったのだろうか。近代日本におけるスポーツ受容、女子選手への批判、遊技教育の諸相から、戦後の「東洋の魔女」、プロ野球、生涯学習としてのスポーツまでの歴史的な事例を丹念に辿り、従来の議論が見落としていた「身体感覚」という視点から私たちが身体とジェンダーをどのように捉えてきたのかを浮き彫りにする。それをもとに、「規範としてのジェンダー」という視角から、優劣や役割にとらわれないジェンダーの可能性を提言する。
女ことば・男ことばって本当は何だろう?ドラマやマンガの登場人物と私たちの話し方が違うのはなぜ?身近なことばから、ジェンダーの「当たり前」を問い直す。
ジェンダーは、女を歴史の周縁から中心へと転位させる批判的概念であった。しかし、その限界が見え始めたいま、あらためてジェンダーと歴史を再考する増補新版。
ジェンダーの視点で広がる発達研究。ジェンダーという概念が導入されて新たな地平が開かれた心理学研究。現実のさまざまな場面に見られる男女の差をその特徴、成り立ち、生物学的・社会的意味から検証しながら、人が社会・文化・歴史のなかのジェンダーに影響されつつ自己を形成していく様子を生涯発達として描き出す。