持続する衝撃力、20世紀最大の知の革命。世界を席巻したラディカル・フェミニズム=ウーマン・リブの爆風から、最新のジェンダー分析の展開まで、フェミニズム理論があらゆる学問・思想にあたえた衝撃力の大きさ、認識の深さ、射程の広さ、想像力をかきたてつづける魅力の全貌に迫る。15の諸潮流・テーマで読むフェミニズム最前線。
本書は、進化論の失敗を含めた歴史的背景を振り返り、差別思想、倫理観、宗教観、フェミニズム、心理学などの既存の領域を進化論的側面から掘り返す。その上で、新たな思想の足場となる生物学的な人間観を提示した、画期的な書。
いままで人権は人間社会に限定してのみ論じられてきた。人権は人間社会においては、普遍的価値をもつものとされてきた。しかし、歴史的条件や体制的状況のありようにおいては、人権という価値は抽象化され、変質される可能性がある。このことを十分に念頭においた上で、人間社会において人権という価値を普遍的なものとして認めることができる。しかし、本書で論じるのは、この確認を前提とした上で、人間を含めた自然のなかにおける人間の地位の相対性、したがって、自然のなかでの人間の権利の相対化という問題である。
反射し拡散し、新たに焦点を結ぶ三つの言葉と三つの主題。「近代国民国家と暴力」にまつわるフェミニズム論争の万華鏡。
いまや政治家も、学者も、官僚も、マスコミも、こぞってフェミニズムに媚びている。しかし本書の著者は、フェミニストの主張が屁理屈にすぎず、実際には多くの女性を苦境に陥れているという実態を明らかにする。
霊長類学、免疫学、生態学など、生物科学が情報科学と接合されるー。高度資本主義と先端的科学知が構築しつづける“無垢なる自然”を解読=解体し、フェミニズムの囲い込みを突破する闘争マニフェスト。
西洋フェミニズムの「普遍的正義」の裏に、異なる文化への差別意識がひそんではいないかー。女性であり、かつ植民地主義の加害者の側に位置することを引き受け、「他者」を一方的に語ることの暴力性を凝視しながら、ことばと名前を奪われた人びとに応答する道をさぐる、大胆にして繊細な文化の政治学。
正当な地位を獲得すればするほど進む若い世代のフェミニズム離れ。それはなぜか。近代主義的な言説の厚む幾重もの屈折を解きほぐす。
『装置としての性支配』(1995年)につづく第五論集。90年代後半から今日までのフェミニズム、ジェンダー論を中心とした著者の代表的な仕事を収める。「女の時代」と呼ばれた80年代から一転して90年代のフェミニズムは、普及と拡散という事態に直面し、フェミニズム離れという現象すら起きている。少子化、晩婚化、経済不況の深刻化のなかでフェミニズムが抱えている課題を明らかにする。総論から各論へ、女性全体の問題から個別の問題へ、という時代の変化の意味を探っていく。性の商品化、性暴力、自己決定、セクハラなどの問題群をどう考えればよいのか。
本書の主題は、人口転換と少子高齢化である。人口学の基礎的な概念をわかりやすく解説し、各種の指標ならびにデータの正確な読み方に留意した。人口問題の概論として、人口研究のメインストリームを論じている。最終章では、少子化に対する各国の政策対応の現状分析を超えて、政策提言に踏みこんだ。
音楽療法からフリー・ミュージックまで最先端の音楽シーンに立ち会って考えたこと。
フェミニズムによって導入されたジェンダー観点は、時々刻々立ち現れてくる支配的な観念や絶対だと信じられている真理を、流動化する大きな力となってきた。さらにそうして生み出された流れを、観念にとどめることなく社会的現実に転化するための思考的実践が必要なのである。「フェミニズム的転回」叢書創刊第1巻目の本書は、哲学、倫理学、美学、宗教民俗学、歴史学の各分野で活躍する著者たちによる刺激的なジェンダー批評の実践である。
第1章 フェミニズム的転回のとき(大越愛子)
第2章 倫理学とジェンダーの視点(志水紀代子)
第3章 美的判断力の可能性(持田季未子)
第4章 「日本」論という思想(井桁碧)
第5章 女性史研究と性暴力パラダイム(藤目ゆき)
ポスト産業社会=“環境社会”実現のための社会改革の思想的方向性を提起する。
身体、そのリアリティから生起する今日の倫理を問う。
社会史的観点からのアプローチを重視した、新しい視点による生物学史研究入門。
本書は、抽象的説明に終始しがちな道徳哲学の諸学説を、安楽死・同性愛・中絶・動物の権利・死刑制度など現代社会のさまざまな現実と引き合わせることによって、他に類をみないほど鮮やかに描き出している。これらの豊富で適切な実例によって、倫理学上の問題とは、書物の中に閉じ込められた空虚な理論ではなく、我々の眼前で生起している生々しい出来事に他ならないということが実感されるであろう。
「ポスト」とは「フェミニズムが終わった」という意味ではない。近年、他の批評理論と交差しながら理論をより先鋭化・深化させ、新たな領野を切り拓いているフェミニズムの新段階のことである。本書は、“ポスト”フェミニズム理論が、どのような現実的文脈から内発的に要請されてきたのか、社会・政治・科学の現況が今何を思考することを迫っているのか、そして、今後どのような展望を描きうるのかを問いかける、新たな時代への「挑戦」の書である。
「“ポスト”フェミニズム」とは何か?精神分析学、ポスト構造主義、ポストモダニズム、ポストコロニアリズム等の批評理論と交差しながら、理論をさらに先鋭化・深化させ、新たな領野を切り拓いていくフェミニズムの新段階のことである。先鋭化・深化を進める“ポスト”フェミニズム理論の図解による初の入門書。ラカン、フーコーから、バトラー、セジウィックまで。
現在、宗教とフェミニズムが交錯する場は複雑に入り組んでいる。この複雑な語りの交差するところにこそ、現代女性の自己再生への可能性がある。宗教は「家父長制の道具」なのか。抑圧された女性を救う力となるのか。
中絶の権利と胎児の生命に対する配慮は両立できるのか。フェミニズム思想の深化をめざして、リベラリズムとの差異を明らかにする。
フェミニストが主張する「私の身体は私のもの」と、リベラリズムの身体の自己所有の概念とは同じものか。それぞれの特徴を探る。フェミニズムは「女の身体は女のもの」という中絶の自由の主張を、リベラリズムの権利の概念を用いて正当化してきた。しかし胎児の生命のとらえ方をめぐって、リベラリズムに対していらだちや違和感をかかえこんでいる。女性の権利と胎児の権利の衝突をどう調停すればよいのかを考え、二つの思想の特徴を明らかにする。リベラリズムを批判的に相対化しようとする試み。
はしがき
序章 産む産まない権利とリプロダクティブ・フリーダム
1 中絶の権利の諸問題
2 リプロダクティブ・フリーダムと中絶の「権利」
1 フェミニズムとリベラリズムの相克
第一章 井上達夫・加藤秀一の論争
1 中絶は権利葛藤問題か
2 論争のすれ違いが意味するもの
2 身体を所有する権利をめぐって
第二章 所有権としての中絶の「権利」
1 身体の自己所有の原則
2 所有権による中絶の正当化1--パーソン論における中絶の「権利」
3 所有権による中絶の正当化2--ジュディス・トムソン「人工妊娠中絶の擁護」
4 所有権に対するフェミニストの異議ーー「胎児の両義性」の主張
第三章 身体的統合の平等としての中絶権ーードゥルシラ・コーネルの試み
1 身体的統合の権利と中絶
2 コーネルは所有権を乗り越えたか
第四章 「身体」の再編
1 <対象としての身体>から<私が存在する身体>へ
2 胎児と「私の身体」の境界
3 <私の身体は私のもの>再考
3 プライバシー権をめぐって
第五章 公私の分離原則とプライバシー権
1 正の善に対する優位
2 中立性の原則
3 個人の独立性
4 プライバシー権としての中絶の位置づけ
5 フェミニストのプライバシー権批判
第六章 「ケアの倫理」とリベラリズム批判ーーキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』
1 もうひとつの声
2 ケアと正義(リベラリズム)をめぐる論争
3 ケアの倫理と再生産責任
第七章 宗教的自由としての中絶の「権利」--ドゥオーキンの『ライフズ・ドミニオン』をめぐって
1 「価値」問題としての中絶
2 「宗教的自由」論はプライバシー権批判をのりこえたか
終章 リプロダクティブ・フリーダムに向けての課題
1 リベラリズムとの決別
2 フェミニズムと「孕む」ことーー「生命倫理学」を超えて
3 リプロダクティブ・フリーダムに向けての課題
4 リベラリズムとフェミニズムの今後
あとがき
参考文献
索引