環境問題は倫理学と哲学の根本問題を提起する。われわれは、どんな種類の生き物?どんな生活をすべき?繁栄できるのはどんな世界?自然界における居場所は?各章ごとに最前線の「環境事例」の丁寧な説明から始まり、本論の後に「練習問題」が付されて“学生・教員にも格好のテキスト”としての利便性。
『アンアン』等の80年代雑誌文化は「フェミニズムのようなもの」だった。「女の時代」と言われたあの頃の空気は、なぜ退潮したのか?林真理子、上野千鶴子らに焦点を当てて検証する。
フェミニズムの今日の課題は何か。欧米のフェミニズム論争の主要な見解を明示、対立と不一致を丹念にときほぐして進歩の可能性を探る。
第3の年齢、サードエイジと呼ばれる50歳からの季節は、すべてのしがらみから解放され、ありのままの自分としてもっとも輝くすばらしい時だ、と著者パトリシアは語る。ところが現実は、思春期の悩みにも似て、迫り来る夕闇に慄きつつ、揺れ動く心。巷に溢れるアンチエイジングの情報を追いかけても、置き去りにされた心はどこか空虚だ。ワインのように、年を重ねるなかで熟成され、芳醇な味のある人生への糸口は、裸の自分自身と向き合うことであると著者は諭す。心理学者である彼女の視点は、あなたの奥深くに眠る人生のもうひとつの扉を開けるヒントを与えてくれるに違いない。高齢化社会・フェミニズムの先進国スウェーデンで評判の書である。
古代シュメールの時代からバイアグラによって「勃起産業」が誕生した現代に至るまでの長い歴史、人間とペニスとの関わりをさまざまな視点から論じる。世界18か国で翻訳出版された話題の作品。
映画・文学・女性学等身大の女性たち。社会主義は女たちに何をもたらし、何をうばったか。丁玲、蕭紅ほか革命の時代を生きた作家たちや新世代による文学、映画などにみる女性の表象を通じて、中国女性の自由と解放への模索を、筆致豊かに描きだす。
ヒステリー患者「アンナO嬢」ことベルタ・パッペンハイムの生涯。ユダヤ女性解放運動を進めた指導者の全体像と時代との相克を明らかにする。
江藤淳を、優れた文芸批評家であると同時に、優れた文明批評家であると見ていた著者による江藤淳論。第一章では、戦後日本の「なんとなさ」に根ざすサブカルチャー文学と対峙し、厳密に選別を行っていた江藤淳の姿を、作品を通して分析する。第二章では、「来歴否認」をキーワードに、三島由紀夫、村上龍、村上春樹等の作家たちの作品と生き方が、さらには、サブカルチャーとして生き続ける著者自身の困難さが語られる。
スニーカー縫製工場と国際政治、女性兵士と家父長制、日常生活と国家安全保障の関係とは?“フェミニスト的好奇心”で加速する軍事化のしくみを照らし出す。
中絶の権利と胎児の生命に対する配慮は両立できるのか。フェミニズム思想の深化をめざして、リベラリズムとの差異を明らかにする。
フェミニストが主張する「私の身体は私のもの」と、リベラリズムの身体の自己所有の概念とは同じものか。それぞれの特徴を探る。フェミニズムは「女の身体は女のもの」という中絶の自由の主張を、リベラリズムの権利の概念を用いて正当化してきた。しかし胎児の生命のとらえ方をめぐって、リベラリズムに対していらだちや違和感をかかえこんでいる。女性の権利と胎児の権利の衝突をどう調停すればよいのかを考え、二つの思想の特徴を明らかにする。リベラリズムを批判的に相対化しようとする試み。
はしがき
序章 産む産まない権利とリプロダクティブ・フリーダム
1 中絶の権利の諸問題
2 リプロダクティブ・フリーダムと中絶の「権利」
1 フェミニズムとリベラリズムの相克
第一章 井上達夫・加藤秀一の論争
1 中絶は権利葛藤問題か
2 論争のすれ違いが意味するもの
2 身体を所有する権利をめぐって
第二章 所有権としての中絶の「権利」
1 身体の自己所有の原則
2 所有権による中絶の正当化1--パーソン論における中絶の「権利」
3 所有権による中絶の正当化2--ジュディス・トムソン「人工妊娠中絶の擁護」
4 所有権に対するフェミニストの異議ーー「胎児の両義性」の主張
第三章 身体的統合の平等としての中絶権ーードゥルシラ・コーネルの試み
1 身体的統合の権利と中絶
2 コーネルは所有権を乗り越えたか
第四章 「身体」の再編
1 <対象としての身体>から<私が存在する身体>へ
2 胎児と「私の身体」の境界
3 <私の身体は私のもの>再考
3 プライバシー権をめぐって
第五章 公私の分離原則とプライバシー権
1 正の善に対する優位
2 中立性の原則
3 個人の独立性
4 プライバシー権としての中絶の位置づけ
5 フェミニストのプライバシー権批判
第六章 「ケアの倫理」とリベラリズム批判ーーキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』
1 もうひとつの声
2 ケアと正義(リベラリズム)をめぐる論争
3 ケアの倫理と再生産責任
第七章 宗教的自由としての中絶の「権利」--ドゥオーキンの『ライフズ・ドミニオン』をめぐって
1 「価値」問題としての中絶
2 「宗教的自由」論はプライバシー権批判をのりこえたか
終章 リプロダクティブ・フリーダムに向けての課題
1 リベラリズムとの決別
2 フェミニズムと「孕む」ことーー「生命倫理学」を超えて
3 リプロダクティブ・フリーダムに向けての課題
4 リベラリズムとフェミニズムの今後
あとがき
参考文献
索引
日本の現実と財界の思惑ーその関係を読み解く。よりマシな社会のために考えてきたこと。
20世紀最後の四半世紀に、われわれは、国連の主催する一連の国際会議を通じて、国際法秩序のあり方が、ジェンダーを機軸に大きく転換しつつあることを経験した。女性差別撤廃条約と選択議定書は、そうしたなかで、ジェンダー視点から国際法学を再構築するための重要なトゥールと位置づけることができる。本書は、このような認識の下に、ジェンダー視点を縦軸に、女性差別撤廃条約選択議定書を横軸にして、フェミニズム国際法学の構築を試みるものである。
本書の直接的な問題関心は、二〇〇五年から二〇一五年までの時期を中心とした女性のM字就業の解体を中核的内容とする日本におけるジェンダー革命の端緒的展開の予測と二一世紀の世界史的なジェンダー革命の展望を明らかにするための歴史的・理論的考察である。そのためにフェミニズムの古典としてのボーヴォワール『第二の性』と、マルクス経済学の古典としての『資本論』とを比較検討しつつ、マルクスが検討しえなかった歴史と現状の資料、とくに性・生殖史と近現代の人口史の資料によって『資本論』を再検討する。
現在、宗教とフェミニズムが交錯する場は複雑に入り組んでいる。この複雑な語りの交差するところにこそ、現代女性の自己再生への可能性がある。宗教は「家父長制の道具」なのか。抑圧された女性を救う力となるのか。
第1部 「帝国」の暴力に抗する(空爆の思想に抗して
とむらいのポリティクス
ミニー・ヴォートリンへの六〇数年後の応答 ほか)
第2部 「女性国際戦犯法廷」の意義(トランスナショナル・フェミニズムの実践としての「女性国際戦犯法廷」
ジェンダー化された国家に抗してー「女性国際戦犯法廷」の挑戦
戦争体制に抗するトランスナショナル・フェミニスト・ネットワークの構築へ)
第3部 歴史を再審する(ジェンダー視点による東アジアの近現代史再考
女性と戦後思想
関東大震災と「日本人」-朝鮮人・中国人虐殺とは何であったか)
対談 大越愛子×井桁碧『国家暴力』とジェンダーー金子ふみ子=不逞者の思想