本書はクレペリン《精神医学》の第2冊として、躁うつ病とてんかんを主題とする内容をふくむ。周期性ないし循環性精神病の概念は、19世紀からことにフランスで唱えられたが、この中にはマニー、メランコリー、譫妄のほかに急性デメンチア(今日の緊張病)、ワーンジン(急性幻覚妄想症)、一過性マニアなどがはっきり区別されずに入っていたのであろう。妄想のあるマニー、妄想のあるメランコリーなどという名称もあった。これら混沌としたものから精神分裂病と躁うつ病を析出させたのはクレペリンの功績であり、マニーとメランコリーをまとめて躁うつ病としたのである。これは偉大な功績であった。この100年近くクレペリンは乗りこえられない存在であった。そしてこれは驚くばかりの新鮮さで、現代精神医学の立つ土台を実感させるであろう。
なぜガリマールをとりあげたのか、かれがユニークで例外的な人物だったからだ。20世紀初頭の10年間に出版活動に身を投じた人々の中で、ガリマールは生涯の終りにあたって、自社の部厚いカタログをひもときながら、フランス文学、それは私だということができた唯一の人物であったことはたしかだ。本書はこの重要でありながらよく知られていない人物について書かれた最初の伝記である。また半世紀にわたるフランスの出版活動についての専門研究でもある。ガストン・ガリマールの生涯という心をそそられる謎の探求の成果である本書は、歴史的な客観性というよりも、知的誠実さをめざしている。目的はただ一つ、ガストン・ガリマールはいかにしてガストン・ガリマールになったか、という問いに答えることであった。
狂気と言語表現の問題。言語表現において理性と狂気は排除しあうか、それとも共に包括されてしまうか。ある尊属殺人事件の訴訟記録を通じて、この問題を追求する。
本書は、ロベスピエールについてもドリヴィエについても、その思想や生涯の全容を描こうとするものではない。本書のめざすところは、この2人の出会いと別離のあとをたどることによって、フランス革命におけるロベスピエールの位置づけを明らかにするとともに、ひいては、フランス革命そのものの近代世界史における位置づけをも明らかにすることにある。この限られた一断面からの考察に、あえて無謀な副題を付したゆえんを諒とされるならば幸いである。
陽光あふれる南フランス、プロヴァンス地方。山の斜面に広がる小さな村、カドネ。ここにも人びとの歴史があります。ローマの支配、サラセンの侵略、城壁に囲まれた中世、鉄道の開通をへて、ゆっくりとそして着実に村は変わっていきます。フランスの第一線で活躍するイラストレーターが、人々のくらしぶり生き生きと描きます。
フランスの王妃イザボーは、狂気の夫シャルル6世を裏切り、義弟オルレアン公ルイと通じて私生児を生み、あげくは領土拡張に腐心するイングランド王ヘンリー5世にフランスを売り渡した。百年戦争のさなか、血ぬられた権力へ執着する王妃の生涯。そして、ここには聖処女ジャンヌ・ダルクとその時代に関する、もっとも新しく衝撃的な証言がある!
魂の救済をもとめて旅立つ人びとの群れ。この群れはやがて、星ふる夜空の〈銀河〉のごとく、西ヨーロッパを横切る大河となって、スペイン北西部の聖地にたどり着く。過去の民衆たちの声を紡いで織り上げた〈巡礼者たちの日常生活〉。
砂漠への苛烈な想像力に憑かれた天才詩人の生涯を、ランボー研究の第一人者が、新資料を駆使して描く決定版伝記。彼をとりまく街の匂い、人びとの肉声がいま生々しく甦る。その生誕から死まで、「ランボー神話」の一切の虚実を、厖大な同時代者の証言と綿密な考証にもとづき、かつてなく明晰に再現する力作。
これは人々が神や妖精たちと自由に話ができたフェリクスという世界の物語りです。フェリクスの森を治める王様は、プリンセスの花婿にふさわしい若者を見つけようとフェリクス中におふれを出しました。それを見て集まった多くの若者たちは、様々な試練が与えられ、最後に2人が残ったのです。1人はフェリクスの湖の国の王子、もう1人は若者に姿を変えた魔法使いでした。プリンセスは湖の王子に心を奪われました。しかし、それを知った魔法使いは王子を世界の果てに飛ばしてしまいました。これはみにくい姿に変えられた王子の、フェリクスをめざす冒険の物語りなのです。