天竺・震旦・本朝と連なる東アジア世界の一角で、はぐくみ育てられた中世民衆の自立と連帯。そこにはいかなる歴史の達成がしめされていたのか。一味神水から逃散、そして還住にまでいたる、かれらのふるまいには、いかなる想いがこめられていたのか。かれらの集合意志の存在は、列島の国家・社会のありかたに、いかなるインパクトを与えることになったのか…。「南〓浮提諸国集覧之図」(延享元年)には、近世の版本ながら、仏教伝来にまで遡る伝統的世界観の枠組がくっきりとあらわされていた。
醒めた笑いと辛辣なアイロニー、そして社会諷刺。ユーモア迷路に繰り広げられる非条理的北欧人論。
スルタンガリエフは、きらめくようなひと筋の光芒を歴史の舞台に残しながら、またたくまにロシアの暗がりの中に姿を消した星である。ロシア革命の閃光と共に登場したスルタンガリエフは、ムスリム民族共産主義の父であった。このタタール人革命家は、ボリシェヴィキの思想にはらまれる「普遍主義」や「オリエンタリズム」の限界をいちはやく見ぬいていた。かれは、ムスリム自身の手で旧ロシア帝国のムスリム民族地域の脱植民地化をはかろうとした知られざる預言者でもある。スルタンガリエフは、生き急ぎ非業の死にたおれた須臾の人生において、社会主義とナショナリズム、それにイスラムの調和と総合を目指した。この「第三世界社会主義」の忘れられた先駆者は、ベン・ベッラ、フランツ・ファノン、アリー・シャリーアティーなどにも深い感銘を与え、激動する中東イスラム世界の現代史にも大きな衝撃を静かに及ぼしている。