本書では、世界で最も影響力のあるソニーデザインセンターの内部を初めて紹介するとともに、これまで紹介されていない21世紀のソニー製品を見ることができる。100件以上もの新製品、コンセプト、プロトタイプについて考察しており、ソニーの21世紀の製品ラインを見渡すことができる。さらに、デジタル技術への変遷に伴う、企業テクニックとデザイン哲学についても解説する。
音楽へのひたむきな愛ゆえ、禁じられた楽譜を月明かりで写した少年バッハ、フレミング伯爵邸で行われるはずの音楽試合は、対戦相手のマルシャンが現れずに不戦勝、ラインケン参りで無一文になったバッハに投げられた魚の頭からは、なんと金貨が…新しい作曲法という新大陸めざして、大航海に乗り出す音楽家バッハの誕生の前史から、「学識ある音楽家」バッハが残した音楽遺産の継承まで、ハーヴァード大学のヴォルフ博士が描いた生身の人間バッハ像。
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ヤーノシュ・シュタルケルの芸術(19CD)
天才技師ピーター・バルトークによるコダーイの無伴奏チェロ・ソナタの鮮烈な録音で世界的に有名になったヤーノシュ・シュタルケルは、大胆な性格と頭の良さで戦時下のハンガリーを生き延び、戦後もさまざまな苦労を重ねながら、やがて世界的な名声を勝ち得た不屈のチェリスト、シュタルケル全盛期の録音を中心に集めたセット。ピリオド・レーベルの名録音がたくさん聴けるのはありがたいです。
シュタルケルは幼い頃からチェロを弾き、8歳のときには6歳のエヴァ・ツァコーにチェロを教えるという早熟ぶり。その後11歳でリサイタル・デビューし、翌年には海外公演もおこなっており、さらに、14歳の時には、わずか6時間前に連絡を受けてドヴォルザークのチェロ協奏曲に代役出演。
しかし、シュタルケルはユダヤ系だったため、第2次大戦中はメッサーシュミットの工場で働かされたりもします。
戦争が終わると、シュタルケルは、フリッチャイの誘いでハンガリー国立歌劇場の首席チェロ奏者となりますが、ハイパーインフレに嫌気がさして祖国を後にし、まずウィーンでコンサートを開いて成功を収めます。そして、ジュネーヴを経てパリに拠点を移し、コンサートやレコーディングに力を注ぎ、1948年、パシフィック・レーベルにコダーイの無伴奏チェロ組曲を録音、このレコードがディスク大賞を受賞すると名声が一躍高まります。
ほどなくアンタル・ドラティの招きもあってアメリカ移住を決意、まずダラス交響楽団の首席チェリストとなりますが、翌年にはフリッツ・ライナーの誘いを受けてメトロポリタン歌劇場の首席奏者に就任、その後、1953年にライナーがシカゴ響に移るとシュタルケルも一緒に動き、1958年に退団するまでライナーのもとで活躍します。
その間、1954年にはアメリカの市民権を得ており、1956年にはヨーロッパ公演も実施、1958年にはインディアナ大学の音楽学部教授に就任し、インディアナ州ブルーミントンに居を構え、長年にわたって演奏家活動と教育活動を並行しておこなってきました。
そのレコーディング総数は160を超えると言われ、卓越したテクニックと音楽性、優れた音質によって、世界的に高い評価を得たものが数多く含まれています。
レコーディングなどでの使用楽器は、1950年から1965年までは主に、「アイレスフォード卿」という名前で知られるストラディヴァリウス、1965年以降はゴフリラーを中心に使用していたようです。
【年表】
1924年(0歳)
●7月5日、ヤーノシュ・シュタルケル、ブダペスト(ハンガリー語ではブダペシュト)の聖ヤーノシュ病院で誕生。家族は父シャーンドル、母マルギット、8歳年長の長男ティボール、4歳年長の次男エーデの5人で、家業は仕立屋でした。
父はオーストリア=ハンガリー帝国時代のポーランド出身のユダヤ系で、母はロシア帝国時代のウクライナ出身のユダヤ系。2人は1915年、オーストリア=ハンガリー帝国時代のブダペストで結婚。
第1次大戦の敗北でオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、2年ほどの混乱期を経て1920年に「ハンガリー王国」が成立しますが、国境線の移動により国籍が失われた人も多く、また、オーストリア=ハンガリー帝国時代の親ユダヤ的な政策方針が廃止。1920年にさっそく反ユダヤ法が整備され始めてさまざまな規制を開始、国籍の新たな取得にも多額の費用がかかるようになったため、シュタルケル家は在留外国人として、毎年滞在許可証を更新していました。
両親ともに音楽とは無縁だったものの、母は教育熱心で、兄2人にはヴァイオリンを習わせていました。
1925年(1歳)
1926年(2歳)
1927年(3歳)
1928年(4歳)
1929年(5歳)
1930年(6歳)
●シュタルケル、チェロのレッスンを開始。教師はフリッツ・テレル。
●シュタルケル、アドルフ・シーファー[1873-1950を師事。シーファーは高名なポッパーの弟子で、その後任としてフランツ・リスト音楽院の教授になっていた人物。毎週シーファーの弟子のレッスンを受け、隔週でシーファー本人が指導するというスケジュールでスタート。
1931年(7歳)
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パスキエ・トリオの芸術(16CD)
フランスの兄弟アンサンブル、「パスキエ・トリオ」の名前は、数々の室内楽名盤によってもよく知られています。このセットでは、得意曲のモーツァルトのディヴェルティメントK563の3種類の録音のほか、ランパルとのモーツァルト:フルート四重奏曲集の2種類の録音、マルグリット・ロンとのフォーレ:ピアノ四重奏曲、ヴェイロン=ラクロワとのモーツァルト:ピアノ四重奏曲など、パスキエ・トリオの代表作とされるものを中心に大量に収録。
ARS NOVAでは、これまで、伝説のフランス弦楽四重奏団、パスカル四重奏団、マルグリット・ロン、ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン、ランドフスカ、フランチェスカッティといったマニアックなフランスのアーティストのボックス・セットをリリース済みで内容も良かっただけに、今回のセットにも期待が持てるところです。
パスキエ・トリオ誕生前夜のフランス経済
第1次大戦の戦勝国フランスでは、135万人の国民が犠牲になり、巨額の経済的損失も蒙ったことから、敗戦国ドイツによる賠償が待たれていましたが、ドイツも177万人の国民を失い、同じく経済的な損失も甚大だったことから支払うことができず、1922年12月には債務不履行と認定。
翌1923年1月にはフランス・ベルギー軍が、ドイツの賠償金不払い、および石炭出荷拒否を理由に、ドイツのルール地方を占領。ドイツはこれに対し、通貨の供給量を戦前の2,000倍とすることで、ハイパーインフレを実現し、債務の減少を企図。
不兌換紙幣の大量発行を背景にした極端な通貨切り下げは債務国の反感を買い、戦前、戦中に続き、戦後のドイツでも利益を上げようとしていたアメリカ(の投資産業)は、事態を収拾すべくドイツ紙幣の信用裏付けとして金本位制に復帰するよう1924年4月に「ドーズ・プラン」を策定、賠償金についても大幅な猶予をおこなうことを提言。
5千万ポンドのドーズ債(JPモルガンとイングランド銀行)を発行し、アメリカの投資マネーがドイツになだれこみワイマール共和政の好景気を招くことになります(フランスは、JPモルガンなどアメリカに大きな負債があったため逆らえずに承認)。
フランス政府は借金体制の中、ドーズ・プランの翌月にはパリ・オリンピックを開催。同時に20%の増税(最大72%)もおこなっています。
ちなみにフランスは、第1次大戦後、紙幣を大量に増刷する一方、1922年から1926年にかけて何度も通貨を切り下げ、フランス・フランの購買力を低下させたため、1928年には信用を回復するために金本位制に復帰、紙幣を不兌換から兌換に切り替えています。
その間、通貨切り下げにより、インフレ率とGDPは上昇しましたが、資産家の預貯金や発行済みの公債などは切り下げのたびに大きな損失を被ることとなり、イタリア政府など、フランス国債の購入を禁止していたほどです。
やがてフランス政府はフランス・フラン下落に歯止めをかける名目で、輸入関税の引き上げを開始、1926年中に全品目について30%の引き上げを実施し、輸出を重視した保護貿易体制と海外からの投資の推進体制を確立。
この時期のフランスの大胆な経済政策には、大統領や外務大臣、文化大臣、宗教大臣などの要職をこなしてきたレイモン・ポアンカレ首相が、一時は財務大臣まで兼務したという特殊な状況もありました。
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