リーガル・マインドの修得のための教養誌特集=芸術と表現の自由
フェリックス・スラトキンの芸術
オーディオ的迫力も強烈なパーカッションやブラスの織り成す軍楽サウンドから、華麗で情感豊かなストリングスまで自在に駆使したスラトキンの魅力に迫る本格的な内容のボックスが英スクリベンダムから登場。
カーメン・ドラゴンと共に米キャピトル・レコードのクラシック部門を支えたスラトキンは、キャピトルでは主にオーケストラと弦楽四重奏でクラシック作品を録音したほか、フランク・シナトラの伴奏もおこなっていました。また、ポピュラー系アンサンブルへのアレンジ作品については、ドラゴンがキャピトル・レコードで先行していたため、スラトキンはリバティ・レコードでアルバムを制作。
今回、英スクリベンダムから登場するセットには、キャピトル・レコードで「コンサート・アーツ管弦楽団」「ハリウッドボウル交響楽団」を指揮したクラシック作品のほか、リバティ・レコードで制作したクラシック・アレンジ系の音源を収録しています。
フェリックス・スラトキンの活動概略
クラシック系
●「ハリウッド弦楽四重奏団」を結成。1939年から1961年までの22年間に渡ってコンサート活動のほか、キャピトル・レコードでレコーディングも実施。ベートーヴェンの後期カルテットなどで名声を博します。
●キャピトル・レコードで、「コンサート・アーツ管弦楽団」を結成&指揮してクラシック作品をレコーディング。EMIがキャピトルを買収した後は「コンサート・アーツ交響楽団」に改名。
●キャピトル・レコードで、「ハリウッドボウル交響楽団」を指揮してクラシック作品をレコーディング。
●グレンデール交響楽団に指揮者として客演。グレンデールはロサンジェルスの隣町で、カーメン・ドラゴンが常任指揮者を務めたオーケストラでもあります。
映画音楽系
●「ワーナー・ブラザース・オーケストラ」の楽員として、映画のオリジナル・サウンド・トラックを演奏。大恐慌の影響から抜け出せないでいた当時のクラシック・オーケストラに較べて高水準の固定給を支給される安定した雇用契約でした。
●「20世紀フォックス・オーケストラ」のコンサートマスターに就任し、数多くの映画のオリジナル・サウンド・トラックを収録。前職のワーナー時代よりもさらに待遇が向上。「20世紀フォックス・オーケストラ」はハリウッド最大のオーケストラでもあり、そこで最高の報酬を得ていたのがスラトキンでした。
ポピュラー系
●リバティ・レコードで、レコーディング用アンサンブルを結成&指揮してアルバムを制作。4つの団体名を使い分け、ポピュラー系楽曲や、映画音楽系楽曲、クラシック大胆編曲などを録音。4つの団体は、「ファンタスティック・ストリングス」「ファンタスティック・フィドルス」「ファンタスティック・ブラス」、「ファンタスティック・パーカッション」というもので、名前から音楽が想像つきやすいようになっていましたされた。
●フランク・シナトラのキャピトル・レコードでのレコーディングで、指揮者、ヴァイオリニスト、アレンジャーとして共演。オーケストラ伴奏から弦楽四重奏伴奏までおこなっています。
スラトキンの最後は、そのシナトラとの1963年2月のレコーディング・セッションの現場でのことで、椅子に座って演奏中に心臓発作に見舞われ、うずくまるようにして意識を喪失、ほどなく47歳の若さで亡くなってしまいます。
フリッツ・ライナーに指揮を、エフレム・ジンバリストにヴァイオリンを師事したスラトキンは、ヴァイオリニストとしての活動を主軸に、指揮者としても高度な能力を発揮。その初見能力の高さと上手さからヴァイオリンの授業をあまり真面目に受けずジンバリストのヒンシュクを買ったり、オペラがあまり好きではなかったことでライナーに注意されたりもしますが、クラシックの枠にとらわれない自在な活動ぶりからも、スラトキンの音楽家と
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アナトリー・ヴェデルニコフの芸術(17CD)
ソ連ものに強いイギリスのスクリベンダム・レーベルから、アナトリー・ヴェデルニコフの17枚組セットが登場。諸事情あってオモテ舞台にはあまり出なかったヴェデルニコフですが、その演奏の独特な魅力によって、マニアの間ではカルト的なピアニストとして有名な存在。
ヴェデルニコフはハルビンの生まれで、満洲や中国、日本で初期のキャリアを築き、東京に8か月間滞在してレオ・シロタのもとで腕をあげるなど、日本とも縁の深い人物。
その演奏は、揺るぎのない高度な技巧により、感情におもねることなく作品の姿を明確に示すのが特徴で、背景にはヴェデルニコフが非常に研究熱心で、たとえばバッハのパルティータを録音するために、カンタータ全曲を勉強するなど、その方法は時間と手間をかけた徹底的なものだったと言います。
実際、ヴェデルニコフのバッハ録音は峻厳な素晴らしい演奏ですし、自身のヴァージョンによる尖鋭な『ペトルーシュカ』(ペトルーシュカの死と亡霊も含む)や、独特の抒情が際立つ『月光ソナタ』、凄まじい迫力のプロコフィエフ『悪魔的暗示』など、作品に応じて突き詰められたスタイルは、バロックから現代にいたる幅広い作品を見事な説得力で聴かせます。特に20世紀音楽については、政府受けが悪い作品でも熱心にとりあげ、それが原因で長きに渡って文化省の不興を買い、活動範囲が限定される要因にもなっていましたが、ヴェデルニコフは方針を改めたりはしませんでした。
そうした政府による制限もあって、自分の不運をぼやきがちだったヴェデルニコフですが、同じく父親を処刑されていた妻のオリガとは、半世紀に渡って結婚生活を維持し、息子ユーリも立派な画家に育つなど、私生活にはとても恵まれていたようです。
ヴェデルニコフが半世紀に渡って住み続けた別荘(ダーチャ、下の画像)は、オリガの父、哲学者のゲッケルがモスクワ近郊のクリャーズマに建てた古い物件で、冬はとても寒かったものの、ヴェデルニコフはそこで音楽の研究に加えて、哲学や文学に親しみ、英語やフランス語も習得、アメリカやイギリスのラジオを聞き、健康維持も兼ねてヨガに興じてもいました(このページ最後の画像)。
略年表1920
■ハルビンで誕生。両親はモスクワから来たロシア人。当時のハルビンはロシア人が半数を占める街。1926
■ハルビンでピアノのレッスンを開始。教師はヴェラ・ディロン。1933
■ハルビン高等音楽院を13歳で首席で卒業。満洲、中国などで演奏活動を開始。天才少年ピアニストとして人気。1935
■東京でレオ・シロタに師事。演奏会、放送にも多数出演。1936
■モスクワに転居。すぐには住居が見つからず、夏だったこともあり、家族はしばらく馬車で生活。
■モスクワ音楽院でネイガウスに師事。1937
■初のレコーディング。
■新入生で5歳年長のリヒテルと親交。4手ピアノ・コンサートも開催。
■両親が逮捕、父親は銃殺、母親は強制収容所行き。1938
■オリガの父親が逮捕、銃殺。1941
■親友リヒテルの父親逮捕、銃殺。
■オリガの母親と姉妹3人が逮捕され強制収容所行き。
■ネイガウス逮捕。1942
■音楽マネジメント組織「モスコンツェルト」にピアニストとして登録。
■オリガと結婚。1943
■長男ユーリ誕生。1944
■ネイガウス、モスクワに復帰。1945
■全ソ連音楽家コンクールで予選落ち。ネイガウスによる低評価が原因。優勝はメルジャーノフとリヒテル。1959
■グネーシン研究所に配属。グートマンの尽力。1963
■グネーシン研究所で准教授に昇進。
■ソ連生活27年目で初の海外ツアー(東側)実施。1980
■モスクワ音楽院に配属。メルジャーノフの尽力。
■初の西側ツアー実施。1983
■ソ連政府より「ロシア共和国功労芸術家」の称号を叙勲。1990
■文化省の公式代表団
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クリエイターのための国際的なグラフィックデザイン誌■特集:装いの生態学 writtenafterwordsと綴る、これからのファッションと視覚文化(仮) ファッションデザイナーは、自身のブランドのコレクション(シーズンごとのテーマをもとに制作発表されるシリーズ)を制作していくうえで、膨大な歴史資料や周辺文化、芸術作品などをリサーチし、言葉やイメージの断片を「ムードボード」と呼ばれる平面空間の中に整理することで、自身のアイデアを可視化していきます。本特集では、そうしたファッションデザイナーたちの創作のプロセスを視覚芸術の視点から読み解くため、ファッションブランド「writtenafterwards(リトゥンアフターワーズ)」のデザイナー・山縣良和によるリサーチの一端と、山縣の個人史や社会的な事象にまつわるビジュアルイメージを結び合わせ、誌上をムードボードに見立てて紹介します。■その他記事 ・スイスアートブック・ブックショップ訪問記 ・展覧会レビュー(あまらぶアートラボ「アイデンティティのキキ」展/G8「UMA / design farm」展) ・亀倉雄策賞・JAGDA新人賞紹介
シニア世代の「人生」と「暮らし」を究める
知識も経験も豊かなシニア世代にとって、人生に必要なのはホンモノと正統のみ。旅、美
味、芸術、文化、道具など、あらゆる分野でホンモノと正統を取り上げ、人生(LIFE)を
豊かに、暮らし(life)を愉しくする月刊誌です。
〈 目次 〉
・ 総論 お茶と健康
解説 中村順行さん(静岡県立大学茶学総合研究センター長、特任教授・67歳)
・ 静岡茶 無農薬茶の杉本園(静岡・牧ノ原)
・ 嬉野茶 副島園(佐賀・嬉野)
・ 宇治茶 童仙房茶舗(京都・南山城村)
・ 朝宮茶 かたぎ古香園(滋賀・信楽)
・ 伊勢茶 やまりん製茶(三重・大台町)
・ 八女茶 お茶の大幸園(福岡・八女)
・ ほうじ茶 柳桜園茶舗(京都・中京区)
水出し玉露 一保堂茶舗(京都・中京区)
・ 煎茶 ナカムラティーライフストア(東京・蔵前)
抹茶 THE MATCHA TOKYO(東京・表参道)
・ [一]茶は禅の思想の帰結 岡倉天心
・ [二]吾輩は甘党である 夏目漱石 正岡子規
・ [三]漱石門下生の茶流儀 伊藤左千夫 野上弥生子 内田百「けん」
・ 琉球王朝の興亡を伝える、沖縄と日本の宝
よみがえる首里城
・ 島袋義一(島袋瓦工場代表取締役・72歳)
・ 首里城正殿ペーパークラフト
・ 首里城正殿ペーパークラフトの魅力
・ 首里城正殿ペーパークラフトの作り方
・ [巻頭言]「ひとり暮らし」を豊かな人生に昇華させる極意
川本三郎さん(評論家・75歳)
松原惇子さん(作家・73歳)
・ 食の充実 本格的な旨い料理が手軽に調理できる台所家電
・ 身だしなみ 健康維持と人づきあいを良好にする清潔家電
・ 家電お助け 故障はもちろん使い方や設定で困ったときも安心
・ 家事代行 掃除や片付けから料理までプロに頼める
・ 運動指導 要望や体力に合わせて最適な方法で運動を指南
・ 「おこもり」の時代にも最適
在宅講習 つまずき予防トレーニング
・ ポーラ美術館「モネとマティスーもうひとつの楽園」より “ここではないどこか”へ
・ 名車を「き」く 石川真禧照
テスラ/モデル3
・ リンボウ先生のおとこの買いもの
丼の風流
・ 詩歌の品格 藤原正彦
君恋し
・ 日本美術そもそも講義 山下裕二
装飾古墳
・ サライ名画館 特別編 川本三郎・選
『わが谷は緑なりき』(1941年)
・ BOOKレビュー
・ 人生を変えたこの一冊
山下洋輔(ジャズピアニスト・78歳)
・ 巷のにほん語 金田一秀穂
ネコハラ
・ CDレビュー
忘れられないこの一枚 中畑 清(野球評論家・66歳)
今月の推薦盤 林田直樹
・ 駱駝倶楽部/アンケート
・ ことばの知恵の輪
難航 十字語判断
・ 半島をゆく
安部龍太郎・北村さゆり・藤田達生
佐渡の半島 その(1)金銀の島
・ サライの眼
折り畳み椅子/ロモ
ホームロースター RT-01/ライソン
・ 特上道具本舗
らくだ屋通信販売部
・ 定番・朝めし自慢
斉風瑞(料理研究家・74歳)
・ 奇想転画異 五木寛之
『沈黙の春』の後にきたもの
・ 月刊つしま おぷうのきょうだい
森であそぼう
・ 展覧会情報
他
とても美しくて、あまりにも深遠で、ものすごく役に立つ。ハマると深い、あなたの知らない数学の世界。娯楽数学入門究極読物!
何が芸術作品を定義し、何が作品にたいするわれわれの反応を決定するのか?最も影響力のある20世紀美学の古典的名著。
●いのちは食でつくられる おいしい食養生
健康に生きることが危機に立たされているいま、
自分の体や暮らしに自信がもてないという人が増えています。
いま本当に必要なのは、過剰に恐れたり排除することよりも、
どんな状況でも揺るがない体を、日々の食で立て直すことなのではないでしょうか。
日本人の健康を長い間支え続けてきた、この国の「養生食」を改めて見つめ直します。
●[特別寄稿]ニューヨークからの提言 坂本龍一
ニューヨークの自宅で自粛成生活を送る坂本龍一さんとの
スカイプインタビューが実現。
アーティストである坂本さんならでは提言、
それは「『失う』ことから創造は生まれる」でした。
●創刊115周年記念特別企画 婦人画報と7人の女性
いまから115年前、『婦人画報』が創刊された明治38年当時、
女性の社会進出が、徐々に広まり始めたとはいえ女性に吹く風は、間違いなく
いまよりもっと厳しいものでした。そんな逆境のなかでも、
風上に向かい舵を取る女性は現れます。
創刊から太平洋戦争前後にかけ、自我を貫き、時には恋に生き文字通り
風上へと向かった7人の女性。創刊115周年にあたる今月号では、
そんな7人の女性が『婦人画報』に残してくれた輝かしき足跡を辿ります。
●市川染五郎 いま、僕が思うこと
気がつけば、「松本金太郎のお絵描き日記」から数えて丸6年、
市川染五郎になってからは約2年半、連載をお願いしてきました。
その間、小学校から中学校に上がり、今年の春には高校生に。
絵の迫力は回を重ねるごとに増し、小さなスペースを突き破らんばかり。
今月は連載40回を記念して、襲名以降に描かれた絵の中から厳選し、
絵に込められた思いとともに、ここに、あらためてご披露します。
●奈良祐希 「白」の記憶 「白」の集積
鋭く尖る白の断片が無数に連なり、端正な円弧を描く陶芸作品ー
作者は、いま気鋭の若手アーティストとして世界的に注目される奈良祐希さん。
東京藝術大学建築科を首席で卒業した建築家であり、また、
約350年の歴史を誇る大樋焼十一代大樋長左衛門を父にもつ陶芸家です。
二つの顔を併せ持つ彼の作品は、陶芸の伝統技法と建築の最先端テクノロジーを
融合させたもの。巧緻を極めた前衛的な表現と対照的に、
そのインスピレーションの源は、日本の原風景にありました。
●玻璃の樹
中国から渡来し、日本文化のひとつとして発達してきた「盆栽」。
近年は、世界の人々がそれぞれの文化や風土のなかで楽しむ
"Bonsai"へと変化してきました。なかでも愛好家が多いというイタリアでは、
ガラス作家のシモーネ・クレスターニ氏によって創られたガラスの盆栽に
注目が集まっています。透明な玻璃(ガラス)のなかに植物の命を吹き込んだ
美しく繊細なGlass Bonsai。誌上鑑賞をどうぞお楽しみください。
●一瞬から永遠へー フルール セシェ
「花は、枯れたら終わりではないんです。その先がむしろ楽しいのですよ」と、
フラワーデザイナーの梶谷奈允子さんは言います。
いつもいつも花が咲いているとは限らない、そして、手に入るとも限らない……、
だからこそ、花と新しい向き合い方をしてみませんか?
【別冊付録】有元葉子の一週間レシピ
毎日の食事は、心と体を作る大切なもの。だからこそ「きちんと」しなければ、
と頑張りすぎていませんか?一日三食すべてに力を注ぐのは、確かに大変かもしれません。
けれど、「一日に一回だけ、バランスの取れた献立を整える」、そう考えると、
気持ちが少し軽くなります。
当たり前の日常が大切に感じられるいま、
日々の健やかな生活を支える「ふだんのごはん」をご紹介します。
看護師自身のストレングスに気づき、その質を高めるためのアプローチ。
数多くの名刹にさまざまな名作を残す水墨画家、東野光生ー画業半世紀を迎え、円熟の極みに達した画家の代表作品を上下巻に収録し、その深遠な芸術世界の本質に迫る。
寺田寅彦は「二つの文化」、自然科学と文学という二つの領域において輝かしい業績を遺した。科学にあっては、ゆらぎやアポトーシスなど、複雑系の科学への流れを想定し、映画や連句においてはモンタージュ論によって芸術理論の革新を計った。本書は、科学における多くの先見の明、戦争や地震災害にたいする対応などから、多面的な人間=寅彦の全体像を初めて明らかにし、その遺産を近・現代科学史に位置づけた刺戟的な労作である。
マルグリット・ロンの芸術(7CD)
ピアニスト・教育者として偉大な足跡を残したフレンチ・ピアニズムの大立者、マルグリット・ロンの7枚組ボックスが、ヒストリカル・レーベル「アルス・ノヴァ(Ars Nova)」から登場。
マルグリット・ロンは好奇心旺盛で、自身で学校をつくったり、ティボーとコンクールを開設したりと多方面で活躍。70代なかばを過ぎても、フランス、テホ社の洒落たスクーターを、コカ・コーラ片手乗り回すなどその生活スタイルは実に快活でした。
【年表】
1874年(0歳)
●11月13日、マルグリット・ロン、南フランス、ニーム市のニーム=ラ=ロマン大通り14番地に誕生。
●11月23日、マルグリット・ロン、ニームの教会で受洗。音楽家の守護者聖セシールの日。
1875年(0〜1歳)
●ロン家、ニーム市のパヴェ通りの住居に転居。
1876年(1〜2歳)
1877年(2〜3歳)
1878年(3〜4歳)
1879年(4〜5歳)
●マルグリット・ロン、8歳年長の姉クレールからピアノのレッスン。
1880年(5〜6歳)
1881年(6〜7歳)
1882年(7〜8歳)
1883年(8〜9歳)
●姉クレール、17歳でニーム音楽院の教職に就きます。
●マルグリット・ロン、ニーム室内楽協会で、フランシス・プランテにピアノを師事。
●マルグリット・ロン、ニーム音楽院に入学。姉クレールのクラスで学びます。
1884年(9〜10歳)
●マルグリット・ロン、オペラに通うようになり、「アイーダ」、「ユグノー教徒」、「ウィリアム・テル」、「ローエングリン」など、多くの作品の聴きどころをピアノに編曲して弾くようになります。
1885年(10〜11歳)
●マルグリット・ロン、闘牛場でカルメンの音楽が鳴り響く中でおこなわれる闘牛に魅せられ、日曜ごとに通うようになり、10歳にして闘牛愛好家となります。
1886年(11〜12歳)
●マルグリット・ロン、ニーム音楽院でシャルル=アメデー・マジェ[1835-1890]のクラスに所属。マジェはパリ音楽院でアントワーヌ=フランソワ・マルモンテル[1816-1898]に師事した人物。マルグリット・ロンはのちにマルモンテルの息子、アントナン・マルモンテル[1850-1907]に師事。アントナンは、タリアフェロやカサドシュも教えています。
●マルグリット・ロン、モーツァルトのピアノ協奏曲第20番をニーム大劇場で演奏。
●11月、パリ音楽院のテオドール・デュボワ[1837-1924]がニームを訪れてマルグリット・ロンの演奏に接して才能を認め、パリで学ぶよう両親に進言。しかし両親は拒否。
1887年(12〜13歳)
●春、パリ音楽院のテオドール・デュボワが再びニームを訪れてマルグリット・ロンの演奏を聴き、前年から進歩が認められたため、両親と話し合って説得。パリ行きが認められます。
●10月、マルグリット・ロン、パリの聖サクレマン修道院の要職にあった従姉のつてで、同修道院の寄宿生になります。
1888年(13〜14歳)
●マルグリット・ロン、パリ音楽院の入学試験が取り消されたため、ニームに帰省。
1889年(14〜15歳)
◆パリ万博開催。
●マルグリット・ロン、パリの聖サクレマン修道院に戻ります。
●マルグリット・ロン、パリ音楽院のシェネ夫人のクラスに入り、年度末に一等賞を獲得。
1890年(15〜16歳)
●マルグリット・ロン、パリ音楽院在学。
1891年(16〜17歳)
●7月、マルグリット・ロン、パリ音楽院を一等賞で卒業。
●秋、マルグリット・ロン、シェネ夫人の采配により、ガルニエル・ジャンティオムの学校に新設されたピアノ科の講師として契約。ガルニエル・ジャンティオムの学校は、資産家のジャンティオム夫人が運営。
●マルグリット・ロン、ジャンティオム夫人に気に入られ、有名な屋敷「
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ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタンの芸術(7CD)
ガブリエル・フォーレの音楽のスペシャリストとして有名だったジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタンの7枚組ボックスが、ヒストリカル・レーベル「アルス・ノヴァ(Ars Nova)」から登場。
フランスのレーベル、デュクレテ=トムソンやシャルランで制作したフォーレのピアノ曲と室内楽曲、フランク、ドビュッシーのピアノ曲に、ザルツブルク音楽祭でのモーツァルトのピアノ協奏曲第23番を収録。
フォーレのスペシャリスト
フォーレが院長だった時代にパリ音楽院で学んだティッサン=ヴァランタンのフォーレ演奏には、フォーレを直接知る生き証人として説得力があり、美しさだけに終わらない内容への希求のようなものも感じられます。ティッサン=ヴァランタンのパリ音楽院でのピアノの師は、マルグリット・ロン、イシドール・フィリップという名教師で、特にマルグリット・ロンからの信頼は篤く、助手のような役割を果たしてもいました。
【年表】
1902年(0歳)
●7月27日、ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタン、オランダのマーストリヒトに誕生。出生名は、ジェルメーヌ・スザンナ・ジャンヌ・ティッサン。母はフランス人のジャンヌ・カロリーヌ・シュミット、父はオランダ人のヨアネス・ヤコブス・タイセンで、黎明期プジョーのディレクターとしてベルギーで働いていたため、フランス風のジャン=ジャック・ティッサンという名前で通していました。
1903年(0〜1歳)
1904年(1〜2歳)
1905年(2〜3歳)
1906年(3〜4歳)
1907年(4〜5歳)
●7月、父ジャン=ジャック死去。
●ティッサン=ヴァランタン、ピアノのレッスンを開始。
1908年(5〜6歳)
1909年(6〜7歳)
1910年(7〜8歳)
●ティッサン=ヴァランタン、モーツァルトのピアノ協奏曲第23番を弾いてデビュー。
●ティッサン=ヴァランタン、リエージュ王立アカデミーに在学。
1911年(8〜9歳)
1912年(9〜10歳)
1913年(10〜11歳)
1914年(11〜12歳)
●ティッサン=ヴァランタン、パリ音楽院に入学。当時の院長はガブリエル・フォーレ。ジェルメーヌは、最初イシドール・フィリップ、続いてマルグリット・ロンのもとでピアノを学んでいます。
1915年(12〜13歳)
●ティッサン=ヴァランタン、パリ音楽院に在学。
1916年(13〜14歳)
●ティッサン=ヴァランタン、パリ音楽院に在学。
1917年(14〜15歳)
●ティッサン=ヴァランタン、パリ音楽院に在学。
1918年(15〜16歳)
●ティッサン=ヴァランタン、パリ音楽院に在学。
1919年(16〜17歳)
●ティッサン=ヴァランタン、パリ音楽院に在学。
1920年(17〜18歳)
●ティッサン=ヴァランタン、パリ音楽院を卒業。ピアノと音楽史で一等賞を獲得。
1921年(18〜19歳)
1922年(19〜20歳)
1923年(20〜21歳)
1924年(21〜22歳)
●12月、ティッサン=ヴァランタン、ポール・ヴァランタンと結婚。自身の姓と夫の姓をハイフンで繋ぎ、ジェルメーヌ・ティッサン=ヴァランタンとして活動を継続。その後、5人の子供を出産し、育児の為にコンサート活動を中断します。
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何でも大同電鍋で作るの?台風や地震の具体的な対策は?どこでも一年中暖かいイメージだけど?民主化をどう確立していったの?台湾人ってどうしてあんなに親切なの?今さら聞けない基本的なことから今ひとつ納得できないでいたことまで100の疑問を解消!
生命進化の歴史のなかで、物質的かつ概念的な構造としての“芸術”はいつ、どのようにして始まったのか。建築し、描き、歌い踊ることは、この大地の上に何を表現し、創造してきたのか。オーストラリア先住民絵画に触発された女性哲学者が、ドゥルーズ=ガタリの非人間主義的哲学やイリガライの性的差異の思考、ダーウィンの性淘汰理論と共振しつつ、動物的なものとしての芸術の起源を探究する。
“日本のゴッホ”の本質に迫る、画期的評伝!従来の「伝説」を排し、“日本のゴッホ”長谷川利行の本質に迫る、画期的評伝!