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小説のことを語る

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 歌仙はホテルに腰を落ち着けた。しばらくはここにいるよと口にした歌仙の横顔を盗み見た。ひとりにしてやったほうがいいのかわからなかった。
 すると、ソファに座ったままの歌仙が声をかけた。
「君は、ご実家に戻るのかい」
「いや」
「それじゃどうするんだい」
 首をかしげた歌仙を見つめながら、俺は父親に似ていると広光はおもった。歌仙に、君は父親を殴り返さないくらいやさしいと指摘されて顔を背けたことがある。あのとき、やさしいわけじゃないと言い返しはしなかった。暴力と支配と愛情との境目がもう、広光にはわからない。歌仙に出逢うまでは分けられるとおもっていた。だが今は、わからない。
今朝だって、長谷部の負い目を思い遣るような言葉を吐いて、有耶無耶のうちに歌仙を連れ出した。狡猾なやり方だ。
「大学をやめて働く。家は継がない」
「住むところは」
「適当に探す」
 適当に、という言葉が気に障ったのだろう。歌仙の太い眉が寄せられていた。
「君の人生だから僕がどうこう言うのもおかしいけど、だったら長谷部のところに」
「いられない」
 それにはまた首をかしげた。広光はソファに腰かけたままの歌仙の前に立つ。そのまま左手を歌仙の頭の横に置き、ゆっくりと背を屈めた。
 歌仙は目をみひらいたままだった。
「あんたが好きだ」
「ひろみつ」
「俺はあんたを選んだ。他はもういらない」
「ひろみつ」
 くちづけて嫌がられたら去るつもりでいた。けれど歌仙は驚いた顔をしただけで身動ぎひとつしなかった。だから右手を頬にかけて顔をちかづけた。
「歌仙、俺にはもうあんたしかいない」
 もういちどくちづけても歌仙は目をとじなかった。広光の両目をのぞきこんでいるように見えたが、なにを考えているか察することは出来なかった。歌仙の両手はおろされたままだ。
「……このまま抱くぞ」
「君いくつだい?」
 ようやく聞いた言葉がそんな問いかけだった。
「あと少しで二十歳。一年だぶってる」
「じゃあ犯罪ではないね」
 いいよ、男性とするのは初めてだけど、と歌仙が目をとじた。投げやりのような、余裕のあるような言いぶりだった。
 広光は歌仙の手をそっと持ち上げた。とても冷たかった。手の甲に、指の背に、爪の先端にくちびるを寄せて囁いた。出来るだけやさしくする。
 べつにかまわないよと歌仙がこたえた。ふられて自棄になってるわけじゃなくてね、と付け足した。素直だな、と広光は言った。自分から言及するとはおもっていなかった。君は聡明で、とてもやさしいからね、と歌仙は広光の手をにぎる。俺は、と言いかけたくちびるを歌仙がおおう。僕のほうがずっと悪いことにしてくれないと困るよ、十歳ちかく年上なのだから。
 ああ、と広光はうなずいた。
 悪くないことの、どうしようもない罪深さをふたりはよく知っていた。