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小説のことを語る

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 長谷部が仕事に出たあとはたいていしばらく二人きりだった。歌仙は、編集者というのはたいてい寝坊助だよとわらった。午前中はソファに腰かけて本を読んでいた。
 小説を書かないのかと問うと、なんだか書けなくてねと苦笑した。
 地方の文学賞の選考委員賞というのをもらい、文芸誌に掲載はされたが本はまだ出ていないという。
 歌仙がつぶやいた。
 自殺した母親のことを書いたんだ。
 向かいに座っていた広光はひとみだけあげた。
 母親のむすめ時代のことをね。あまりにも距離がちかすぎて書けないかとおもったけど書いたらずいぶんと楽になった。あの当時のじぶんが何をおもっていたのかも、なんとなくそれでわかった。ただ、僕のなかにもう何もなくなってしまった気がして、東京に出てこようとおもったのも、それを確かめるためで。ないならないで別にいいんだ。けど、わからないままではいられなくてね。禅寺にいる友人にも東京行きをすすめられて来たんだけど、何も書いてない。書けないでいる。

 そのころにはもう、禅寺にいる友人の名字が左文字だということも広光は知っていた。 
 貪るように本をよむ歌仙は、泊めてもらっているのだから家事くらいして当然だとおもっているようだった。それでも、広光がお手伝いさんにこっそりと教わった賄い飯のような丼物をさしだすと目尻をさげた。
 長谷部が一昨年買った中古マンションのキッチンには歌仙の満足のいくような台所用具も食材もほとんど無いに等しかった。歌仙は文句を言いながら広光を荷物持ちにして買い物に出た。
 そこで、仕事で遅くなると連絡のあった長谷部が若い女性と一緒にいるのをふたりは見かける。
 呆然と立ち尽くす広光の腕を歌仙が引いた。

 行くよ、邪魔しちゃいけない。

 掴まれた腕が痛い。広光は俯いた歌仙が泣いているのかと横顔をのぞきこむと微笑んでいた。広光は息をのんだ。ひとはこんなふうにわらえるのを知らなかった。腕を攫みかえす。早足で、今度は歌仙を引きずるようにしてその場をはなれた。
 しばらくたって、きれいなお嬢さんだったねと広光に同意を求めてきたので首をふった。あんたのほうがずっと綺麗だ。おやおや、何か一品、君の好物を用意しないとならないねと歌仙はわらった。ふだんと変わらない笑顔だった。

 家に帰り、ふたりだけで食事をとった。
 昼と違ってしずかな食卓だった。

 あんた、国重の友人なのか。

 広光がたずねた。
 洗い物の手をとめて歌仙はその問いに首をかしげた。
 微妙な間があいた。
 回転の速い男らしからぬ逡巡に広光は内心いくらか狼狽えた。

 そうだねえ、強いて言えば恩人かな。僕がいっとき世話になった。

 歌仙は湯をとめた。いっしゅんの静寂が耳に痛い。
 手をぬぐい、しゅるりと前髪を結んでいた紐をとく。

 国重は、

 うなだれたままで呟かれた名前に歌仙は続きを待った。

 俺を庇って殴られたこともある。
 そう。
 大人たちの誰も逆らえなかったのに、あいつだけが……
 長谷部らしいね。彼は義侠心に篤いし、恩義のある人間を裏切れない。

 あとは拭いて仕舞うだけだから任せるよと歌仙が言った。広光は声をかけなかった。ただ真実だけを告げられたのだと理解できた。
 歌仙がはっきりと想いを告げたら出ていくつもりだったと考えて、広光は自嘲した。邪魔をしていることくらいそのはじめから知っていた。いつもなら自分から出ていく。いつだって、そうやって生きてきた。けれど今回は――……
 ティーカップを戸棚にしまい、なにも持たぬ手をただながめた。

 歌仙が明日ホテルに戻ると言い出したのはその夜も遅くなってからのことだった。長谷部が帰宅したのが零時前だったのだ。
 長谷部は引きとめる言葉をもたなかった。
 広光はふたりから少し離れた場所に座っていた。
 歌仙が部屋を出ていってすぐ、広光は腰をあげた。後を追うものとおもった長谷部の思惑と違い、甥はまだ座したままの彼の前に立った。
 その右手があがる。
 拳がひらかれて鍵がのぞいた。
 長谷部は、テーブルのうえにそれを置いた甥の顔をみた。

 家に戻るのか。
 いや、俺はあいつの行く場所を確かめる。あんたには長いこと世話になった。俺の母親のことを負い目におもう必要はない。俺はもう父親のいるあの家に戻らない。
 大学はどうするつもりなんだ。
 やめる。俺はあんたやあいつみたいに勉強が特別に好きなわけじゃない。出来ないと殴られるからやってきただけだ。

 長谷部はテーブルのうえで組み合わせた拳をそのままで尋ねた。

 ……歌仙と暮らすのか?

 広光は首をふった。そんな約束は何もしていないと言い切った。
 長谷部はため息をついた。そこにいくらか安堵が含まれていた。だが、それもつかの間のことだった。
 翌朝、歌仙が長谷部に挨拶をする横に立ち、広光はさも当然のようにその荷物を手にもった。歌仙は不思議そうな顔をした。
「君も出るのかい? 自分の荷物くらい自分で持つよ」
「買い出しに荷物持ちとして付き合わせたくせに」
「あれはだってこの家の」
「いいから行くぞ」
 じゃあな国重、広光はそう言って歌仙の腕を掴んだ。荷物を奪われてしまった歌仙は長谷部を振り返り、居所が決まったら連絡するよ、と出ていった。
 扉が閉まり、歌仙の声が聞こえた。
 なにを慌ててるんだい。待ちなよ、僕はじぶんの荷物をひとに持たれるのが好きじゃない。
 なら早く来い。
 ふたりの会話とあしおとが聞こえなくなって、長谷部はそこにうずくまった。スーツを着たいい大人の格好ではなかったが立っていられなかった。