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小説のことを語る

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 ホテルを引き払った歌仙は長谷部の家にとどまった。昼や夕方は編集者との打ち合わせや部屋探しで家をあけたけれど、夜には帰ってきて台所に立った。広光は半ば強制的にその横で手伝いをさせられた。
 君、怪我をして動けないわけでなく、大学生にもなって何もしないつもりか。こどもでも家の手伝いくらいするものさ。
 大上段に正論を述べられてしまっては返す言葉もない。いや、もともと広光の口数はけっして多くないのだ。
 歌仙兼定は文句の多いおとこだが、そのいっぽう褒め言葉をも惜しまなかった。おや、君は手際がいいねと微笑んだ。それを本人の前で言うだけでなく、長谷部にも伝えてつけたした。そういえば君も、何をしても覚えが早かったね。それを聞いた叔父と甥が互いに顔を見合わせたのを見て、歌仙が機嫌よくわらった。僕は従弟によく似ていると言われるのだけど、叔父と甥というのも似るものなのだねと口にしてつぎの瞬間にはもう、古書店で手に入れた詩集がねと、自分の興味へと取りついた。
 長谷部は褒められた居心地の悪さに席を立ち、甥の広光が歌仙のさしだした本でなく、その顏を見ていることに気がついた。
 広光は、長谷部の注視に気がついた。
 視線はたしかにかち合った。
 けれど広光は何も見なかったかのように再び歌仙兼定を見つめた。その息遣いを確かめるような目をしていた。
「歌仙」
 長谷部は詩を読みあげる男の名を思わずよんだ。
「なんだい」
「コーヒー、ブラックでいいか」
「ああ、ありがとう」
 ふわりと笑うその顔を見ず、広光もブラックでいいなと問う。ああ、とこたえが返ったが視線はこちらに向かなかった。歌仙をだけ見ていた。

 長谷部のコーヒーにはミルクと砂糖がはいっていた。