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小説のことを語る

【十年後】

 その十年後――
 長谷部はある政治家の秘書におさまっていた。彼の学費その他の面倒を見てくれた黒田という男だった。
 その事務所に一本の電話がかかってきた。懐かしい声だった。
 国会議員秘書とは出世したね。東京に行く。住まいを探すつもりなので、ともかく一度会いたい。
 相手の都合を鑑みることのない歌仙兼定のものいいに長谷部はわらった。怒るものかとおもっていたが、ただただ笑えた。

 君、失礼だな。
 お前こそ。
 そうだね、すまない。

 少しも悪びれない声がいった。
 歌仙は小説家になっていた。父親の事業はそうそうに近親者に引き払い、そちらはそれでうまくまわっているらしい。以前名前を聞いたことのある和泉だの三日月だのといった相手の情報も知れた。意外なことに和泉という男は歌仙の年下の従弟だった。口うるさくてねと歌仙は眉をしかめた。三日月というのは歌仙の祖父の代から家同士が知り合いらしかった。三日月は面白い男だから君いちど会うといいよとすすめられたが言下に断った。はなしの流れで三条グループの次期総帥と知れた。昔堅気の派閥の領袖が世話になっている。新参者が顔をだすなどとんでもない。

 ふたりは酒を酌み交わし、あのころくりかえされた互いへの不平不満を笑い話として口にしてほどほどに酔っ払い、零時を迎えた。時計をみる歌仙をそっとうかがう。手首におさまったそれは、あのとき指差したものに似ている気がした。そんなことを覚えてしまっていた自分に呆れていると、話し足りないから君の家にいきたいと言いだされた。散らかっているぞと断りを入れやすくしてやるが、かまわないよと平然と返る。互いに結婚していないことは確かめていた。
 そして――家のドアの前に黒い塊りがしゃがみこんでいた。

「国重、泊めてくれ」

 口の端の切れた大倶利伽羅広光だった。