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歴史のことを語る

自分自身BLMを契機に行なわれる銅像破壊については基本的には共感する立場だ。
ただ、東日本大震災時の福島第一原発事故のとき、行政側が過去を隠蔽するかのように原発を歓迎する標語の看板を取り去ろうとしたことにも違和感を感じたし、あのときは残せと言う住民運動の方にも共感した。
負の歴史のモニュメントは残すべきか、それとも残さないべきかと言うことで考えると自分自身とても矛盾したものに共感をしているのだが、これは何故かと言うことをときどき考える。
もし「負の歴史も残すべきだ」と言う立場に立つのならば、せめて銅像はもう折田先生像のように面白ペイントでもしつつ横にキャプションをつけて残すしかないなとか思う。何故ならそういった銅像は乱暴者を英雄のように表現しているものだから、そのままでは英雄の銅像なのか負の歴史の記録なのか判らないからだ。
ただ、あの福島の看板は何も手を加えなくとも少なくとも現段階ではやっぱり負の歴史の記憶として見えてしまうだろうと思う。それはおそらく背景にあるものが復興ままならぬ街並みの荒廃で、その荒廃の原因の象徴として見えるからではないかと思う。
勿論、共感の差は壊そうとしたのが権力側なのか、市民側なのかと言うところから出てきた差であるということもあるが、それにしても何故権力があるものは壊そうとし、あるものは破壊に抵抗しようとするのかと言う差の謎はあって、その差が出てくるのはそういったモニュメントのある場の文脈的なものによって変わってきているのだと思う。