不幸があまり大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される。
(シモーヌ・ヴェイユ 『重力と恩寵』)
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不幸があまり大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される。
(シモーヌ・ヴェイユ 『重力と恩寵』)
当然、家庭も学校も職場も感情文化に取り囲まれているわけだが、学校がとりわけ組織的に感情を社会化する強力な機関であることは言を俟たない。
日本の学校では、特に「気持ち」や「みんなの心を一つにすること」が重視される。感動や涙をめざして卒業式の練習が念入りに繰り返されるのも、その一例といえよう。
卒業式の練習がそうした感情の社会化場面であることは、次の回想からもうかがえる。
(中略)
このように、卒業式が「社会的な期待にそって心をこめるべき事態」であるという規範と、その規範に従う方法が、あらかじめ繰り返し教えられる。
式の参加者が感…[全文を見る]
このような「方程式」の存在は、卒業式の歌を集めたCDの帯や楽譜集の表紙からも読み取れる。
「涙で声を詰まらせた感動の名曲」「学校生活最後の日、みんなで心ひとつに通わせてうたう」「全国の卒業生が涙した」などのフレーズは、卒業式の歌に求められるものが何であるかを物語っている。
また、『涙を超えた感無量の卒業式をつくる』『生徒の涙が輝く卒業式を演出する』といった教育実践書のタイトルからも、それが意匠に満ちた演出によって構成され、感情に働きかけようと企図する営みであることがわかる。
その結果として、みんなで感動しともに涙する「感情の共同…[全文を見る]
しかし、学校にも泣きが禁じられない場面、むしろ涙が望ましいとされる状況がある。つまり、誰も理由を問うことのない涙である。
それは、個人が泣くのではなく複数の個々人が泣くのでもない「集団の涙」であって、連帯の証となるような「共同化された涙」であることが重要な条件となっている。
この「涙の共同化」は、努力や感動ときわめて親密な関係を持っている。たとえば、スポーツ競技や合唱コンクールなど「みんなでがんばった」結果が表れる場面の涙は、美しく道徳的なものとみなされる。
「みんなで泣く」ことが、子供たちの精神的成長の表れと解されることもある。その際教師も一緒に涙するならば、良好な教師‐生徒関係が築かれているとして肯定的に受け止められることが多い。
(講談社選書メチエ 『卒業式の歴史学』 有本真紀 p.9.)