昭和五十年に行われた”古代船野性号”の航海では、釜山から出航すると、潮に流されて自力では対馬に着けなかった。だから実際にはもっと西から出たのではないかという(張明澄氏など)。
対馬海峡の潮流も同様なので、対馬からは→沖ノ島→宗像の方が着けやすかったかもしれない。
逆に、帰りの便は、同じ理由によって、東松浦半島→壱岐→対馬→金海という航路を想定できる。
だとすると、行程記事のうち、少なくともこの部分は、復路の記録を逆向きに並べ替えたことになる。
魏志倭人伝のことを語る

昭和五十年に行われた”古代船野性号”の航海では、釜山から出航すると、潮に流されて自力では対馬に着けなかった。だから実際にはもっと西から出たのではないかという(張明澄氏など)。
対馬海峡の潮流も同様なので、対馬からは→沖ノ島→宗像の方が着けやすかったかもしれない。
逆に、帰りの便は、同じ理由によって、東松浦半島→壱岐→対馬→金海という航路を想定できる。
だとすると、行程記事のうち、少なくともこの部分は、復路の記録を逆向きに並べ替えたことになる。