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自分(id:gustav5)のことを語る

自らの位置を確認するために、他人の否定から入る人というのはおそらくどこにでもいて、乱射事件の報道を視てとっさにそれを想起した。信仰を持つことは悪いわけではないけれど、信仰の強さを誇示するために、他人の否定≒異教徒殺しもしくは戒律破りの処罰、ってのに動いたのかなあ、と。他人の否定が必ずしもその人の信仰の篤さの証明になりはしないと思うのだけど、なかなか消えないのは、それが手っ取り早いからか。原理主義者による信仰に名を借りた事件が相次いで起きるのは悲しいかな、人という存在が神(仏でもいいのだが)ではないことの証明にしかならないのかなあ、と。