○大人になると想像力を失う、というのはどうなんだろう。ただ大人になって想像力を正しい認識と方向感覚でコントロールできる、ってのはわからんでもないなあ、と。想像力から物語を立ち上げる、ってのは、そうなの?としかわからない。私は物語を語るつもりがまったくないから。
○でもって大人になっても想像力のつまった「屋根裏部屋」にアクセスできる、ってのと、ただジョイスを引用して、想像力は何かに誘発されたものではなく、ストックされたものから湧き上がってくる、ってのもわからないでもないなあ、と。
○12月になると、討ち入りってたまに関東ローカルのニュースで取り上げられるんすが、忠臣蔵が何百年経ってもくりかえしくりかえし歌舞伎でやったりドラマでぶりかえされたり、毎年忠臣蔵を偲んだりするのは、そこらへんに起因するのかなあ、と。起きたことを「しょうがない」と考えてのみこむことができるか、というと人によっては違うかもしれません。物語としての忠臣蔵というのはおきたことを「しようがない」と受け入れられず、また「ものを知らないやつに対する蔑視」をあらわにするような「いかすけないやつ」が成敗される話でもあると思ってて、忠臣蔵がいまでも人気があるのは後者のせいで、「いかすけないやつ」があちこちにいてあいついつかぶち殺したろ、と思ってる人がたくさんいるんじゃないか、と勝手に考えてるんすが。「いかすけないやつ」に泣かされたことがある場合、いかすけないやつ≒吉良上野介は許せなく、忠臣蔵はそういう内心に明確な輪郭を与えて、いかすけないやつが滅びなければならない、という方向性を示してるので、個人的にはひどく惹かれる話で、っててめえのはなしはともかく、屋根裏部屋にアクセスするっていうか、想像力はストックから湧き上がる、ってのはそういうことなのだろうか、とかかんがえた。ぜんぜんちがうかもしれないが。すくなくとも吉良上野介は世の中にいるし、復讐譚のようなものをどこか期待してるし、万にひとつ、物語を書くとしたらそこらへんなんだけど。
文学と全然関係ないけど、起きたことを受け入れられないとき、討ち入りが可能なのは物語という枠組みの中だからで、いかすけないやつは永遠に不滅だし、そりが合わない人というのはいて、実はそれらの人への対処法が人付き合いの中ですごく重要かもしれなくて、避けられない時にどうやったらそういう人と巧く付き合うか、というのも重要だとわかりつつ、答えは出ないのですけども。
○おれが文学とかそこらへん語ろうとするとどんどんわけわかめになる。
自分(id:gustav5)のことを語る
