〇4日5日と山梨の身延の下部温泉というところに行っていたのですが

下部の温泉街のそばに湯之奥金山博物館というのがあって(というか怒られそうなことを書くとそれと温泉しかない)、見学したら興味深いところでした。
〇最初は今川家が管轄していたのですがその後甲斐武田家の治世に発展し、徳川幕府に移って江戸中期ころまで下部のあたりには金山がいくつもあって、純度の高い金を採掘していたようです。信玄の時代は不揃いだったのですが、勝頼の時代、武田家の治世末期のころから甲斐の領内で産出される金は地金重量と額面表示が一定して・比例して作られてた甲州金とよばれてて甲斐の領内で流通していました。武田家滅亡後徳川家の治世になっても・徳川幕府体制になっても江戸や上方の貨幣制度とは別に甲州金は甲州独自の通貨として甲斐国内では通用していました(今回はじめて知った)。
〇江戸時代、江戸幕府が金や銀の改鋳(純度をさげること)をやるのですが、甲州金はいっさいその改鋳をしなかったので、江戸幕府の流通させる金貨幣より甲州金は品位が高くなり、さらに江戸幕府の改鋳した金貨が甲斐に流通しだすと甲州金が甲斐国外に流出し・甲斐国内でも使われずに死蔵される結果になり、地方通貨としての甲州金は貨幣として終焉をむかえます。
〇以下山梨中銀(という甲府の地銀)の解説文の受け売りになるのですが、甲州金には糸目という通貨単位があり(糸目金という通貨単位があった)、金に糸目をつけないという言葉は甲州金から来た、ということに(山梨中銀説をとると)なっています。甲州金という実体は消えても言葉は生き残るのだなあ、と、目からうろこでした
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