○写真があるのになぜ絵が廃れないかといえば、写真ではできないことを描くときに絵は適してるからで、なぜ韻文が廃れないか、といえば韻文にしか伝えられないことがあるわけで。なんでそんなこというかっていうと、真夏の夜の夢で
Love looks not with the eyes, but with the mind, and therefore is winged Cupid painted blind.
ってのにぶちあたったことがあるんすが、恋は目でみずに、心でみるもの、ゆえにつばさあるキューピッドは盲目で描かれているってやつのはずなんすけど、韻を踏んでてうまく日本語に訳しにくいけど、正確に意味をとらなくても、聞いただけでもなんとなく趣旨はわかってくるはずのものなのです。きいただけでなんとなくわかる・なんとなく印象に残るっていう怖さが韻文にはあるはずなのです。定型詩とかって、えてして言葉の力を借りて、なんとなくわからせてしまう効能があるんではないかと。効能っていっても非科学的ですが。
でもってこれらのことがmodokiさんへのなぜ韻文が廃れないのかという問いの答えになってるかどうかはわからない。
○でもって、韻文に限らず、詩や短歌や俳句に関しても同じことが言えるのでは、って思っちまうわけです。ハイクは自由なんだけど、俳句とか短歌とか詩でもいいんすが、ことばになぜこだわるか、といえば、上記にあげた経験から来るもので、その効能さえしっかり理解していれば・口にして意味が通じると思えば、絵や写真は必要ないのではないか、ああもしかして言葉を信用してのかなあ、と思えるわけで。それが日本語の危機だとかそういうのに結び付けるつもりはないです。
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