2月11日は、日本の祝日法で「建国記念の日」…ということになっている。では建国記念の日とは何なのか…ということで、手元の電子辞書に収録されている『百科事典マイペディア』を引いてみると、「戦前の紀元節の日に当たる」と書いてある(まぁそんなことは知っているのだが…)。
では、「紀元節」とは何か、ということで同事典を繰ってみると、
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旧四大節の一つ。建国祭とも。1872年太政官布告で1月29日を神武天皇即位の祝日と定め,1873年紀元節と命名。太陽暦に換算して2月11日を国家の祝日とした。1948年廃止されたが1966年建国記念の日として復活した。〈辛酉年春正月庚辰朔,天皇即帝位於橿原宮〉という《日本書紀》の記述に基づいたものだが,(後略)
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…云々、と載っている。ここで「建国」という場合の「国」とは何か、何を以て「建国」とするか、という問題は別にしておく。
『日本書紀』の記述の上では、「天皇」の号を付けて呼ばれる人物が即位するのは、もちろんこれが最初である。王政復古を建前とした明治政府としては(この場合の王は天皇を指すので)、この日を「紀元節」とすることは、それ自体はそれなりに筋が通っている。
しかし、書紀のこの条には、国を建てたという表現はない。神武天皇が古語(昔話、伝承)で「始馭天下之天皇」と呼ばれた、というのは、字の意味としては「天皇として天下を治めた最初の人物」ということだろう。この字を「はつくにしらすすめらみこと」と読むのは、崇神天皇もそう呼ばれている(字は違うが)ので、建国者という意味にはならない。
書紀を遡ってみると、神武天皇は十五歳の時に太子に立てられた、とある。太子というのは天子や王の後継者のことだから、神武の父のウガヤフキアヘズ尊は少なくとも国王といったくらいの格だった様であり、国というものは既に建っていた様でもある。
さらに遡って、書紀の神代下巻の本文では、神武天皇の曾祖父のニニギ尊は、タカミムスヒ尊が”葦原中国”の主にしたいというので、高天原から降されたということになっている。それから神武天皇が東征を始めるまで、179万2470年あまりも経っていたことになっている。
もし、それまでに建国していなかったとすると、ニニギ尊は葦原中国の主になれと命を受けたにも関わらず、それほど長い間、孫の代までも、九州の片隅でのんびりと(時々兄弟喧嘩をしたり、産屋を燃やしたりもしながら)暮らしていたのだろうか。
そうではなく、先にオホナムチから王権の委譲を受けているのだから、ニニギ尊は既に国を治めていたとも考えられる。すると神武天皇の役割は、ナガスネヒコの国などを併合して、ヤマトに遷都し、広がった国土にふさわしい様に号を進めた、ということになる。秦の始皇帝がまず秦王の位を継ぎ、後に天下統一して帝位に即いたというのと似た構図になる。
いずれにしろ、日本書紀の歴史観をそのまま信じるとしても、建国記念の日を定める根拠はない様に見える。
