ここに、妙にヨレヨレなことを書きこみそうになってあわてて消す。
わたしが語りたいのは、語りと語り部への愛だから。
おはなしには「構造」がある、と気づいたのは5歳のときだ。
「構造」という難しいことばは知らなかったけれど、それはたしかに「構造」としか呼べないしろものなのであった。
わたしが生まれて初めて親に買ってほしいとおねだりしたことを覚えている本は小学館から出ている『お話宝玉選』シリーズ(三冊組)で、これによって日本だけでなく世界中のおはなしを知ることができた結果、うえの事実に気づいてしまったのである。
ちなみに、絶版である。地団駄ふんで両の拳を振り回して復刊を望むと叫んでおく。
おかげでわたしはおはなしに「構造的美観」なぞというものを追い求めてしまいがちな人間に出来上がってしまったのだ。
あなオソロシヤ。
しかしながら、『新しい太陽の書』のセヴェリアンもいっているように、
「実際、世の中のすべてのよきものの中で、人類が自分のものだと主張できるのは物語と音楽だけである」
だけは、たとえ彼が史上最高にして最強かつ最凶(恐ろしいことに、狂ではない)の騙り部であろうとも、それはまごうことなく真実なのである。
それは、ひとのもちうるもっともよきもの、愛すべきものなのだ。
「白状するが、わたしは物語が大好きだ」
「物語は宇宙の計画のなかでは実際に小さなものであるが、われわれ自身のものをもっとも愛さずにいることは難しい――少なくとも、わたしにとっては難しいことなのである」
この世のすべての、おはなしを愛するひとに。
florentine(磯崎愛)のことを語る
