~古典よむ部~
今夜更新の今になって、微妙に、けどかなりハッキリと、「小説」が動きだす。まあ落ち着け。あのめくるめく「魔法の時間」に没入する前に、これだけはメモっておいて損はない。
以下の引用文はすべて、西成彦『エクストラテリトリアル』(作品社)から。
文字通り、ほんとうに文字通り「治外法権」の作家たち、
そしてあらゆる意味での「文学的治外法権」「治外法権的知性」のはなしである。
《ゴンブローヴィッチとその同時代人》
「誰がゴンブローヴィッチの同時代人であったのか」
「そしてそのシェイクスピアの「同時代人」たろうとするものは、シェイクスピアから何かを学ぼうだとか、何かを換骨奪胎しようだとか、そんなふうには考えないものなのだ。ずばり、ゴンブローヴィッチは、シェイクスピアさん、ぼくならこうすると、シェイクスピアへの対抗意識をむきだしにして、たとえば『王女イヴォナ』を書いてみせた。君はどうしてこんなふうに書かなかったのか、と」
「同じ両大戦間期ポーランドの前衛作家の中でも、ゴンブローヴィッチが際立っているのは、ありとあらゆる「古典」に対する、その挑戦的姿勢であった」
「初期短編から『王女イヴォナ』を経て、『フェルディドゥルケ』まで、それらはプラトンからルキアノスまでの対話文学、ダンテ、ラブレー、そしてコンラッド、ジャリ、ジャック・ロンドン、H・G・ウエルズ、これらすべて「古典」に対する個人的「否」――私ならこう書く――なのであった」
「ゴンブローヴィッチが苛立ったのは、いわゆる「古典作家」の挑発を真っ向から受け止める代わりに、ひたすらその名声にすがり、ただ彼らを崇拝するあまり、決して彼らを「同時代人」とはみなさない「二流」の「同時代人」の存在であった。
挑発に対する鈍感さ。現代世界を冒しているこの持病に対して、はたしてゴンブローヴィッチの挑発は、多少なりとも、特効薬たりうるだろうか。いまとなっては、これまた「古典作家」のひとりにすぎないゴンブローヴィッチではあるが、その挑発に対して鈍感であってはならない。ゴンブローヴィッチを「同時代人」とみなしうるかどうかに、私たちの治外法権的精神の健康はかかっている」
《ハエの羽音のような言語》
「究極のマイノリティの言語とは、要するに、誰の耳によっても言語としては聴き取られることのない言語のことであり、文学研究とは、そうしたノイズに耳を傾ける営為の積み重ねでなければならない。要するに、盗聴こそが文学研究者に求められている至高の業なのである」
florentine(磯崎愛)のことを語る
